放課後。道場で待ち合わせすることになった太陽と星良は、いつも通り稽古をはじめた。いつもは互角の勝負だが、今日は太陽の分が悪い。著しく集中力がかけているからだ。
 その理由を、星良は知っていた。

 ひかりが星良のいる教室に駆け込んできたのは午後の授業が終わった時。笑美と千歳にチア部に誘われ、断るのに苦戦していると、頬をバラ色に染め、大きな瞳を潤ませたひかりが星良の名を呼んだ。
「どうしよう、星良ちゃん」
 何事かと笑美たちから離れ、教室の片隅に行くと、泣きそうなひかりがそう訴えた。パニックに落ちいっているように見えるひかり。落ち着きのあるひかりにしては珍しい。
「どうしようって、どうしたの?」
 尋ねつつ、星良の胸に靄のように不安が広がる。
 危険な事にあったなら、顔は青ざめるものだ。だが、ひかりの頬はバラ色。危険な目に合っていないのはよかったと思うが、ひかりが頬を染める相手は一人しかいない。
「もしかしたら、聞かれちゃったかもしれないの」
 『誰』に『何』を、と訊かずともひかりの様子でわかる。『太陽』に『自分の気持ち』を聞かれたのかもしれないということだ。
 星良の胸の鼓動が、嫌な感じに早くなる。
「何があったの?」
 訊ねた声は、緊張の為にわずかに掠れた。だが、ひかりはいっぱいいっぱいなのか、その星良の変化には気づかない。
「あのね……」
 先輩に告白されたこと、太陽を好きだと見抜かれてそう言われたこと、その時誰かが近くにいたらしいこと、時間を置いてから教室に戻ろうとしたところで太陽と出くわし、目があった太陽の顔が朱に染まったこと……。
 ひかりが語る内容を、星良はだんだんと息苦しくなりながら黙って聞いていた。
 太陽にひかりの気持ちがばれたことは、恐らく間違いない。そうでなければ、あの鈍い太陽が目があっただけで頬を染めるとは考えられないからだ。
 そのあと、ひかりは逃げるように教室に戻り、授業が終わった後も太陽の様子を見ることなく星良のもとまで逃げてきたようだ。
 だが、『どうしよう』と言われても、星良の方がどうしたらいいのかわからない。
 二人の距離が徐々に近づくことはあっても、こんなに急展開が起こるとは思ってもいなかった。自分がどうしたらいいのかすらわかっていないのに、他人にアドバイスできるわけがない。
 とりあえず、泣きそうなひかりをハグし、艶のある髪を優しく撫でて落ち着かせる。自分よりも早かったひかりの鼓動が徐々に正常なリズムを奏ではじめてから身体を離すと、ひかりは「ありがとう」と言って、ようやく笑顔を取り戻した。
 太陽には先に道場に行ってもらうようにメールし、ひかりともう少し話す。二人の結論が『太陽の出方を待つ』となったところで部活に向かうひかりと別れ、星良は帰路についたのだった。

 先に道場に来ていた太陽は、道着姿でひとり、ストレッチをしていた。身体はしっかり動かしているが、支度を整えて道場に入ってきた星良に気づかぬほど、心ここにあらず。
 それが何故なのかわかっている星良の心境は複雑だった。
 太陽を見れば、負の感情で思い悩んでいるわけではないのがわかる。
 ひかりの気持ちを知ることによって、自分の中に芽生えていた感情をはっきりと自覚した戸惑いと喜び。
 そんな感情がみてとれた。
 星良は深呼吸して気持ちを落ち着ける。笑顔を浮かべてから太陽に近づいた。
「おまたせ」
「あ、星良」
 真横に建った星良が声をかけられ、はねるように顔をあげる太陽。ここまで近くにくるまで気づかなかった自分に驚いているようだ。
「もう準備万端? だったらはじめよっか」
 太陽の瞳が探るように自分を見つめたのがわかったが、星良は何事もなかったように稽古を促した。太陽は数度瞬目してから微笑を浮かべると、ゆっくりと立ち上がった。
 稽古の間は互いに余計なことは考えず、互いの出方だけを反射的に考えながら体を動かす。つまり、自分とだけ向き合ってくれる、太陽を独占できる時間。
 少なくとも、今まではそうだった。自分も太陽も、稽古中は互いのことしか考えていなかった。
 でも……。
 目の前の太陽が、違うことを考えているのがわかる。自分を見つめているはずの瞳が、違う誰かを想っているのがわかる。
 痛みが心を蝕んでいく。運動のせいではなく、呼吸が乱れてくる。
 堪えきれなくなって、星良は太陽を畳の上に叩きつけた。その勢いで太陽に覆いかぶさるように膝をついた星良の目の前で、我に返ったように両目をはっと見開く太陽。星良の険しい顔を眼前にし、自分が上の空だったことに気づいたらしい。
「あ、ゴメン」
「……集中力なさすぎ」
「ゴメン……」
 ぼそっと責めた星良に、太陽は苦笑を返した。今の自分自身に、戸惑っているようだ。
 それ程に、ひかりの気持ちを知ったことに動揺している。嬉しい意味で。
「太陽……」
 口をついて出た言葉は、熱を帯びて掠れていた。
 畳を背にしたまま、太陽は怪訝そうに星良を見上げる。
 星良の間近にある、澄んだ鳶色の瞳に吸い込まれそうになりながら、考えるより先に、言葉が零れ落ちる。
「好きだよ」
 自分を見てほしくて、溢れ出た思いが音になって静かな道場に響いた。
 太陽は僅かに鳶色の瞳を見開いたが、すぐに優しく細められる。
「オレも、好きだよ」
 嬉しいはずの言葉が、星良の胸を切り裂く。その痛みで、感情のタガが外れる。
「そうじゃなくてっ!!」
「星良?」
 悲鳴のような星良の言葉に、驚きと戸惑いを隠せない幼馴染。漆黒の瞳にみるまに溜まっていく涙を、どうしたらいいのかわからずに揺れる瞳で見つめている。
「……そんな『好き』じゃなくて」
 もう抑えきれない高ぶった感情が、呟く声を震わせる。
 どうしたら、ちゃんと伝わる? どうしたら、自分を『幼馴染』以上に見てくれる?
 もう手遅れかもしれないという思いが、星良の心をかき乱し、冷静な思考を奪い去る。
「星良?」
 気遣うように自分を呼んだ愛しい声に、そっと伸ばして頬に触れてくれたごつごつとした手の温もりに、星良の想いが振り切れる。
 頬に触れた手を取ると、星良は生まれてからずっと傍にいた幼馴染の美しい顔に、今までにないほど顔を寄せた。鳶色の瞳に自分が映っているのを見て思わず目を瞑ったが、そのまま顔を近づける。
 触れるというよりは、ぶつかったと表現がしっくりするように、勢いよく唇を重ねた。
 息もできず、その温もりも感触も感じる余裕もない、初めてのキス。
 そのまま数秒、どちらも動くことができなかった。
 息苦しくなって、ようやく唇を離し、体を起こす星良。怖くて目を開けられぬまま、大きく息を吸う。自分が何をしたのか自覚して、今頃になって心臓が早鐘のように鳴っていた。
 太陽は、どう思っただろう? 自分の気持ちを、理解してくれた?
 短い沈黙の時間が、やたら長く感じる。
 目を閉じたまま緊張を隠しきれない星良は、自分の下で横になったままの太陽が、己の髪をくしゃっとかきあげたのがわかった。
 恐る恐る目を開けると、髪をかき上げた後、自分の顔を手で覆っている太陽の姿が映った。その唇が、ゆっくりと動く。
「……ゴメン、星良」
 頭に上っていた血が、すぅっとひいた。血の気の失せた唇が震える。
 その謝罪の意味がなんなのか尋ねる勇気はなく、気がつくと、星良は道場を飛び出していた。

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