足音が遠ざかっていくと、道場の中をしんっと重苦しい静けさが包んだ。ドッドッドッと、自分の鼓動だけが響く。
 追いつめられたような星良の瞳。伝わらない想いをぶつけるかのように重ねられた唇。
 あんな星良を、自分は知らない。
 人の為になら涙を見せるが、自分の事では泣こうとしない星良の瞳に堪えきれずにたまった涙は、自分のせい。混乱した頭で口をついて出た言葉は、さらに彼女を傷つけた。
 それなのに、追うことすらできずにいる……。

「いつまで寝てる気?」
 突然投げかけられた声に、確認しなくとも、道場の入り口に半眼で立っている親友の姿が目に浮かんだ。
「そこは、追うべきところでしょ」
「……行っても、なんて声をかけたらいいのかわからない」
 太陽が正直に述べると、返ってきたのは呆れたため息。とすとすと、畳の上を歩く音が近づいてくる。顔に手を当てたままでいた太陽の頭を、ぺしりと平手が叩いた。
「傷ついてるのは星良さんだよ。太陽がそんなんでどうするのさ」
 親友の正論に、返す言葉がない。だが、誰よりも傷つけたくない相手を自分自身が傷つけたことが胸に痛すぎて、思考がマヒしている。
 動けずにいる太陽を見て、月也がとすんとそこに座り、深々とため息をついたのが分かった。トントンと、指で畳を叩いている。
「よし、それじゃ整理しよう」
 気を取り直すようにそう言って、月也は言葉を続けた。
「久遠と星良さん、大事なのはどっち?」
「…………」
 いきなり核心をつかれて、太陽はそろりと手をどけると隣に座る親友を見上げた。眼鏡の奥から、すべてを見通していそうな茶色の瞳が自分を真っ直ぐと見つめている。
「月也、どこまで知ってる?」
「全部?」
 唇の片端をあげてさらりと答えた月也に、苦笑が浮かぶ。さすが月也と言うべきか、自分が鈍かっただけなのか……。
 月也から天井に視線を移し、それから再び目を閉じた。
 最初に浮かぶのは、幼馴染みの嬉しそうな笑顔。
「一番大事なのは、星良だよ」
 それは、迷いのない言葉。
 自分の気持ちを確かめるように、気持ちを口に出す。
「たとえば……久遠さんにこの先もう二度と会えなくても、俺は生きていける。だけど、星良がいない人生は、俺には考えられない」
 生まれたときから、当たり前のように傍にいた星良。これから先も、ずっと傍にいるのが当たり前だと思っていた。たとえ互いに別の相手と結婚しても、自分と星良の絆は変わることが無いと、そう思っていた。
「だったら、そう言えばいいんじゃないの?」
 何を迷う必要があると言外に秘めた親友の言葉に、太陽は静かに首をふった。
「でも、違うんだ」
 自分の『大事』は星良の求めている気持ちとは違う。それをたった今、気づかされたばかりだ。
「太陽の『好き』と、星良さんの『好き』が違うって事?」
 的確に返ってくる親友の問い。それに、ゆっくりと頷く。
「どんなに星良を大切だと思っても、星良の『好き』とは違うから、星良の傷は癒せない」
 星良が示した熱い恋情。その気持ちを唇で受け止め、そして、自分の中にはそれに応えられる気持ちがないと気づいてしまった。どんなに大事に思っていても、たくさんの愛情がこの胸に溢れていても、それは星良の求める想いとは違う。
「太陽の星良さんに対する気持ちは、友情以上にならないって?」
「友情……とも違うかな」
 友情よりは、もっと愛おしい存在。だが、この『愛情』は恋人に向けるものとはきっと違う。
「友情じゃなくて、でも誰よりも大事な人なのに、それが異性に対する愛情と違うって思うのはなんで?」
 混乱した心を解きほぐすように、質問を重ねる月也。太陽は少し考え、そして体内の空気をすべて追い出すかのように長く息を吐いた。
「……星良に、抱きしめる以上のことはできない」
「それって、ただ単に星良さんに色気がないだけじゃなくて?」
「あのなー」
 真面目に答えたのに茶化された気がして、目を開けて親友を軽く睨む。月也は軽く肩をすくめた。
「星良の事、ちゃんと可愛い女の子だと思ってる。だけど、近すぎて、大事すぎて、そういう対象には見れないってこと」
「じゃあ、久藤はそういう対象に見えるの?」
「っ……」
 月也のストレートな問いに、太陽の頬がわずかに朱に染まる。じとっと親友を見つめたが、平然と返事を待っているので、仕方なく口を開く。
「俺も健全な男子高校生なんだけど……」
「ふーん」
 腕組みをし、視線を宙に彷徨わせる月也。少ししてから、太陽の鳶色の瞳に視線を戻す。
「奥さんよりも娘命なお父さんの心境ってこと?」
「……そう言われると、近いかも」
 星良のことを、妹とも娘とも思ったことはない。だが、自分よりも相手を大事だと純粋に思う気持ちは、父親の娘に対する愛情に近いかもしれない。どんなに愛していても、性的対象にならないことも。
「なるほどねー」
 納得したように呟いた後、月也は真面目な顔で太陽を見つめた。
「でもさ、それって今現在と過去の話でしょ。星良さんだって、つい最近までは恋愛感情じゃなかったよ。太陽も、星良さんの気持ちを知ったこれからだったら、気持ちが変わる可能性があるんじゃないの?」
 まるで、そうであって欲しいかと願うような瞳。
 太陽は親友のそんな眼差しを見つめ、表情を和らげた。
 星良は認めないだろうが、月也は自分と同じくらい星良に甘い。星良と月也がこの道場で出会ってからずっとそうだ。今も、星良の気持ちを救おうと自分の気持ちを誘導しようとしている。
「月也は、それでいいの?」
 思いがけない切り返しだったのか、月也は大きく目を見開いた。それから、眉根に皺を寄せる。
「――まさか、僕のせいとか言わないよね?」
「月也が星良のことを好きだとしても、それに遠慮して星良を泣かせるくらいなら、月也に泣いてもらうよ」
「それならいいけど」
「いいんだ」
 危険球を投げたつもりが平然とよけられ、太陽は苦笑を浮かべた。月也は目を三日月のように細め、口元に小さな笑みを浮かべる。
「いいよ。星良さんが笑顔なら」
 愛おしいものを想う、柔らかい声。彼女に向けるものよりずっと、優しい。
 そんな親友の穏やかな眼差しが、すっと挑戦的な瞳に変わる。
「っていうかさ、いくら太陽が大事に大事にしたって、太陽が彼女にしなかったら、星良さんだっていつかは他の男のものになっちゃうんだよ。いいわけ?」
「それは……」
「太陽がしなくたって、キス以上のあんなことやこんなこともされちゃうんだよ。わかってる?」
「…………」
 複雑な心境で顔をしかめる太陽を、月也はおかしそうに見つめる。寝転がったままの太陽の肩を、ぱんっと叩く。
「星良さんのこと、一度ちゃんと恋愛対象の女の子として見てあげなよ。勝負する前に試合放棄されたら、星良さんの気持ち、行き場をなくしちゃうから」
「……うん」
 再び手で顔を覆いながら答える太陽。
 確かに、そうかもしれないと思う。全力をつくさなければ、不完全燃焼でいつまでも気持ちを引きずるのは、恋に限ったことじゃない。他の事に関しても、ずっとそうだった。
 今のままで終わらせるのはよくない。それはわかっている。
「ま、星良さんも混乱中で落ち着かないだろうし、太陽も今すぐ行けるほど気持ちが整理できないなら、明日でもいいからさ。ちゃんと話してあげなよ、今の正直な気持ち。あんな、言葉足らずの『ゴメン』じゃなくて」
「……うん」
 もう一度ぽんっと肩を叩き、立ち上がると去っていく親友。
 自分のことも、星良のことも、自分以上に大切に思ってくれる親友に心から感謝した。

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