安心して眠れたのがよかったのだろう。星良の体温は、翌日にはほぼ平熱に下がっていた。
週末なので、学校は休みだ。星良はベッドの上で横になりながら、携帯電話の画面をぼうっと見つめていた。
そこに映し出されているのは、ひかりからのメール。星良の体調を気遣う言葉が綴られている。昨日送られてきたそれに、星良はまだ返事を返せずにいた。
昨日は、太陽が自分とちゃんと向き合ってくれると知ってただ嬉しかった。だが、熱が下がり冷静になった今、ひかりのことを思うと嬉しさは半分も残っていない。
ひかりの気持ちを知ってしまった太陽。そのことに気づいたひかり。
自分が何もしなければ、二人がつきあいはじめるのは時間の問題だっただろう。
だが、自分が暴走してしまったが故に、それを邪魔してしまった。自分と向き合うと言ってくれた以上、その間、太陽はひかりの気持ちに応えることはないだろう。ひかりの想いを知ってしまったことも、それに対する己の気持ちも胸の奥に深く仕舞い込んで、きっと自分とのことを考えてくれる。
それは、嬉しい。
だけど、ひかりは?
自分を信じて相談してくれたのに、太陽だってひかりに惹かれているのに……。
そう思うと、昨日の太陽の言葉をただ喜ぶことはできない。
でも、どうしたらいいのかわからない。
ひかりのメールを見つめ、星良は唇を噛んだ。この胸の痛みは、罪悪感だ。
自分の気持ちを隠し、正直に話してくれたひかりの邪魔をした罪の意識……。
誰かに相談したくても、その相手が思い浮かばない。こんな卑怯な自分を晒し出せるほど信頼できる相手が、いない。
知らぬ間に溢れ出てきた涙が、液晶画面を滲ませる。
その時、手にしていた携帯電話が突然メロディーを奏で、星良は驚いてベッドの上に落としてしまった。慌てて拾い上げ、電話の相手を確認する。液晶画面に表示された名を見て、星良は我知らずホッとした。
『調子はどう? 星良さん』
電話に出ると、聞こえてきたのは月也の声。車が通りすぎる音が聞こえるので、どうやらどこか外にいるらしい。
「熱は下がった」
涙で微妙に鼻声になっている自分の声に少し驚きつつ、星良は平静を装って答える。涙声に気づかれなかったのか、電話の向こうで月也が微笑んだのがわかった。
『それはよかった。もう、外にでられそう?』
「出れなくはないけど……なんで?」
今日明日は学校に行く必要もない。話をするだけなら電話で十分だし、会うならば月也が道場にくるのがいつものパターンだ。
『近くまで凛と散歩に来たから、よかったら気分転換に一緒に散歩でもって思ったんだけど』
「行きたい!」
まだ見ぬ月也の飼い犬を思い浮かべ、星良は即答していた。犬が飼えない身の上だからこそ、犬との散歩に憧れがある。
『じゃ、道場の近くまでいったらまた電話するよ。おばさん、犬アレルギーひどいんでしょ?』
「うん。支度して待ってる」
電話を切ると、いそいそと部屋着から外出着に着替える星良。母親には病み上がりのくせにランニングにでも行くのかと止められかけたが、ただの散歩で運動しないと約束したら外出させてもらえた。
神崎家の一本先の道で、月也と合流した。月也の隣にちょこんと座って尻尾を振っている凛をみて、星良は目を輝かせる。赤茶の短毛、ぴんと立った耳、くりんと丸まったふさふさの尻尾。柴犬だろうか。
「可愛いーー!!」
しゃがんで凛と目の高さを合わせる星良。凛はつぶらな瞳で星良を見つめ、さらに大きく尻尾を振った。
「撫でてもいい?」
「どうぞ」
そっと頭を撫でると、目を細める凛。顔を近づけて、星良の頬をぺろりとなめる。
「うわっ」
「こら、凛。星良さん嫌がってる」
「いや、嫌じゃないよ」
思わず声をあげた星良の為に叱られた凛をかばうように凛の首を抱くと、凛はぺろぺろと星良の頬をなめた。
「く、くすぐったいだけ」
「それならいいけど」
凛と戯れる星良を見て、眼鏡の奥の瞳を三日月型に細める月也。星良と凛が落ち着くまで、笑顔のまま見守った。
それから、二人と一匹は歩き出した。
凛は月也のすぐ隣を歩いている。時々、月也の顔を見上げるしぐさが愛らしい。
羨ましそうに見ているのがばれたのか、月也は少しすると笑ってリードを差し出した。
「どうぞ、星良さん」
「え、あたしで大丈夫? 凛ちゃん、嫌がらない?」
躊躇う星良に、月也はリードを手渡した。
「大丈夫うちの凛は賢いから」
自慢げに言う月也からは、凛のことが大好きだと伝わってくる。いつも自分をからかう月也とは少し違って、星良は微笑むとリードを受け取った。
凛はちゃんと星良の隣を歩き、時々星良を見上げたり、月也を見上げたりしている。
「犬の散歩って、もっと引っ張られたりするのかと思ってた」
「それはちゃんとしつけされてないんだよ」
うちの凛は優秀なのだと言外に言っている月也がなんだか可愛くて、星良はクスっと笑った。
そのあとも、他愛もない犬の話をしながら散歩をする。目的地は少し離れた場所にある、ドッグランのある公園だった。涼しくなりはじめる夕方は、同じように遊ばせに来ている人が多い。月也がリードを外すと、凛は元気よく走りはじめ、友達らしい犬とじゃれあい始めた。
「元気だねー」
楽しそうに走り回る凛の姿に、ドッグランの端にあるベンチに座った星良は目を細めた。大人しく月也に付き従う凛も可愛いが、元気いっぱいの凛は生き生きとしていてもっと可愛い。
「星良さんも元気そうでよかったよ」
柔らかな月也の声。体調を気遣う以上のものが込められている気がして、星良は隣に座る月也の横顔をじっと見つめた。
「体調崩すほど、辛かったんでしょ?」
「…………」
ひかりが教室に飛び込んできたとき、月也もまだ教室にいた。星良の気持ちを知っている月也のことだから、星良がどんな想いだったか想像がついたのだろう。
凛の可愛さで誤魔化されていた胸の傷口が、再び開く。心に、血が流れる。
「星良さん?」
影を落とした星良を、心配そうに覗き込む月也。星良は笑って誤魔化そうとしたが、上手く笑えなかった。それを見た月也が、苦笑を浮かべる。
「太陽、ちゃんとフォローしに行ったんじゃなかったの?」
「……どこまで知ってるの?」
ひかりと星良のことだけでなく、太陽と星良に何があったかまで知っているかの口調に半眼で睨むと、月也は軽く肩をすくめた。
「まー、色々と?」
「色々って……」
追求したい気もしたが、それよりもひかりへの罪悪感が頭をもたげた。この気持ちを吐き出せるのは、今、隣で自分を見つめている相手以外、いない気がした。
「太陽は、ちゃんとフォローしてくれたよ」
「じゃ、何を落ち込んでるの?」
「だって、ひかりが……」
そこまでしか言葉がでなかった。口に出すと自分の醜い部分が浮き彫りになるようで、声がつまったのだ。
「星良さん、何がそんなに久遠に後ろめたいの?」
自分を見つめる月也の声は優しい。息苦しさが、少し楽になる。
「……嘘ついた。太陽が好きかって聞かれて……でも、本当の事、言えなかった」
「なんで?」
「だって……あたしの気持ち知ったら、ひかりが遠慮するんじゃないかって……」
俯いて、膝の上で組んだ手を見つめる星良。ひかりの為に嘘をついたと言い訳しているが、本当は、自分の気持ちを知られるのが怖かっただけかもしれない。そんな自分が、嫌でしょうがない。
が……。
「別にいいんじゃないの? 遠慮されたらされたで」
あっけらかんと答えられ、星良は顔を上げて月也を睨んだ。月也は、柔らかに目を細める。
「他の人に譲れるくらいの気持ちなら、上手くいったとしてもそのうち別れるよ。それに、その程度の気持ちの人に、世界で一番大事な人を奪われていいの? 遠慮できるくらいの想いの人と、幸せになってほしいと本気で思える?」
「それは……」
「だから、星良さんが自分の気持ちを隠す必要なんてないよ。正直に言って壊れる友情も別にいらないでしょ。長続きしないよ、そんなの。本気でぶつかれない相手に、一番大事な人を譲る必要、ある?」
「…………」
月也の言葉に反論できない。そうかもしれないと、心のどこかで同意する自分がいる。
だが、そう簡単に割り切れない。
「でも、太陽だって、ひかりのこと……」
「同じことでしょ。忘れられる想いなら、そこまでの恋だったってことだよ。星良さんが気に病むことじゃないと思うけど?」
そうは言われても、心が納得できない。自分が二人の邪魔をしていることを、正当化なんてできない。それでも太陽のことを好きでたまらないことも、抑えることができない……。
じわりと涙が滲むのを堪えることができずにいると、月也は柔らかく目を細めた。
「あのね、星良さん」
声に優しさが滲む。茶色の瞳の奥に、暖かな光が灯っている。
潤んだ瞳で月也を見つめると、月也は切なげに微笑んだ。
「星良さんは久遠も太陽も傷つけたくないと思ってるでしょ。だから、二人の仲を邪魔した自分が嫌で、でも、太陽を譲りたくなくて、苦しくてしょうがないんでしょ」
「……だったら、何?」
「逆の立場だったら、星良さんはどう思う? 自分の幸せの影で、何も知らずに友達を泣かせていたって後で知ったら、その方がショックじゃない? 少なくとも、久遠はそういう奴だと僕は思うんだけど」
星良ははっと息をのんだ。
傷つけられるのも痛いが、傷つける方が痛いこともある。
ひかりは、それ知っている人だと思う。星良の代わりに太陽が殴られようとしたとき、太陽を叱ったのは、それを知っていたからだ。そんなタイプだからこそ、星良はひかりが好きなのだ。
「久遠は星良さんの気持ちを知っても、ちゃんと受け止めるだけの強さがあるよ。逃げもしない、責めたりもしない。それは幼馴染の僕が保証する」
「……でも昔、好きな人に他に好きな人がいるのを知って諦めたって……」
ぼそっと反論した星良に、月也はくすっと笑う。
「いや、星良さん。友達と同じ人が好きだから諦めるのと、好きな人に想う人がいるから諦めるのは、根本的に違うでしょ」
「そう……かな?」
「そうだよ。っていうかさ、星良さん。自分がぐじぐじいつまでも悩んでる理由、本当にわかってる?」
呆れたような苦笑を浮かべる月也をムッとして睨む星良。
「わかってるから、悩んでるんですけど」
「わかってるかなぁ? 太陽が恋愛対象として見てくれてなかったとか、友達と同じ人が好きだとか、それだけなら星良さん寝込まないと思うよ?」
手のひらを返したように、悩みを大したことのないように言われ、さらに苛立つ星良。
「実際寝込んだんですけどっ!!」
周囲にいた人や犬たちに驚いたように見られ、星良は大声を出したことを周囲に謝ってから月也を横目でにらんだ。月也はくくっと笑っている。
「笑い事じゃないんだけどっ」
今度は声のボリュームを落として文句を述べる。目を怒らせる星良に、月也は眼鏡の奥の目を細めた。
「そうそう、星良さんはそうじゃないと」
「そうって、何よ」
「思ったことは素直に口にするってこと」
月也のペースにのせられて、うじうじ悩んでいたことをいつの間にか大声を出せるほどのテンションで口に出していたことに気づく。
「それと、星良さんは真っ向勝負が信条でしょ? 相手も本気、自分も本気で戦わなきゃ気が済まない人でしょ? たとえ敵わない相手でも、全力でぶつかっていきたい人でしょ? 恋だってそれでいいんだよ、星良さんは。久遠とも真っ向勝負すればいい。太陽にも全力でぶつかっていけばいい。いつも後先考えずに勝負挑む星良さんが、後先考えて動かないから熱まで出すんだよ。久遠にも、太陽にも、難しいこと考えずに全力でぶちあたってきなよ。ちゃんと受け止めてくれるから。やらない後悔より、やった後悔の方が星良さんには似合ってるよ」
「……うん」
月也の言葉に、今度は素直に頷けた。
確かにそうだ。考えるばかりで動けずにいるから、心に澱がたまっていって、苦しくなる。考える前に行動している自分には、そんな事向いていないのだ。
太陽も、ひかりも、大好きだ。だからこそぶつかれなかったが、好きだからこそ正直な気持ちでむかっていくべきだった。
たとえそれで誰かが傷つく結果が待っていたとしても、嘘をついたままよりずっとマシだと思う。
「ま、当たって砕けた骨は、僕がひろってあげるから」
「砕けるの前提っ!?」
思わず突っ込むと、月也はくくっと笑った。どうも、怒らせていつもの星良のテンションにひっぱりあげようとしているらしい。
ムッとする気持ちより、なんだか嬉しいような気持ちが勝る。
すべてを明るく照らす太陽のような輝きとは違うが、月也は、暗闇の中、迷った心に道しるべのように輝く月光のようだ。なんだか、ホッとする。
思う存分友達と遊んだ凛が月也のもとに戻ってくると、星良と月也に遊んでくれというように短く吠え、ぶんぶんと尻尾を振った。
月也と星良は顔を見合わせてから同時に立ち上がり、凛と遊び始める。
星良は、深い海の底に沈んでいた心が、どんどんと光あふれる海面へと浮上していくのを感じていた。