昼休みに入り、ランチをとる前にひとりトイレに行った星良は、手を洗おうと水道の前に立ったその横に唯花がいるのに気付いた。鏡に向かって熱心にメイクを直しているが、星良にはどこを直す必要があるのかさっぱりわからない。ある意味すごいなと、自分にはない情熱にやや感心しつつ手を洗う。その時、鏡越しにふと目があった。グロスで艶めいた唯花の唇の端がゆっくりと上がる。
「神崎もバカじゃなかったのね」
「は?」
 突然の言い草に、星良は軽く眉間にしわを寄せた。唯花はくすっと笑う。
「あら、だって私の忠告聞き入れたんでしょ、結局」
 勝ち誇ったような笑みを鏡越しに向けられるが、星良には何のことかすぐには思い当たらなかった。ただ眉間のしわを深くする。
 唯花はチークを入れ直しながら、言葉を続ける。
「最近久遠さんと一緒にいないじゃない。利用されてるって自分でも気づいたからでしょ」
 そこまで言われ、星良はようやく体育祭の打ち上げで唯花に言われたことを思いだした。ひかりが星良に近づいたのは太陽の気を引くためだと、そう言われたのだ。
「別にそんなんじゃない。たまたま予定が合わないだけ」
 濡れた手をハンカチで拭きながらぶっきらぼうに答える星良。唯花は横目で星良を見る。
「ふーん。本当にそうかしら? 実はもう朝宮くんと十分仲良くなって神崎に利用価値がなくなったから、久遠さんの方から距離を置かれてたりして。だったら可哀そうね」
「だから、そんなんじゃないから!」
 カッとなって思わず声を荒げたが、唯花は全く動じた様子はない。むしろ、そんな星良の反応を楽しんでいるかのようだ。
「怒るのって、どこか図星をつかれたからでしょ。だから親切に忠告してあげたのに、残念ね」
「っ……」
 言い返そうと思ったが、すぐに言葉が思い浮かばずに声を詰まらせる星良。その間に唯花はメイク道具をしまい、艶やかな笑みを浮かべて星良の後ろを通り過ぎ、トイレを出て行った。
 星良は唇を噛み、ギュッと拳を握りしめ、心に広がった重苦しい闇色の気持ちを浄化しようと、鼻から大きく息を吸ったのだった。


 その頃、少し授業が延びた太陽のクラスはようやく昼休みに入ったところだった。
 月也と昼食をとる約束をしていた太陽は、財布とペットボトルをバッグから取り出す。と、強い視線を横から感じた。誰のものか、見なくてもわかる。
 彼女が動く前に、サッと席をたった。自分の席の方が教室の出入り口に近い。他クラスの月也と昼食をとるのだから、すぐに教室を出て行っても不自然ではないはずだ。
 彼女の気配を背中に感じつつ、太陽は教室の出口に急ぐ。そこに月也の姿を見つけ、ホッと笑みがこぼれた。
「早かったな、月也」
「キリがいいからって少し早く授業終わったからね」
「こっちは少し伸びた」
 天気がいいので外で食べようと提案し歩き出すと、一拍遅れて月也が隣に並んだ。月也が教室の中に視線を向けていたのに気づいていたが、太陽はそれに触れずに他愛もない話題を振る。その話に月也も乗ってくれたが、ふと会話が途切れた瞬間に小さく嘆息された。
「太陽って、結構不器用だよね」
「……何が?」
 とぼけてみるが、横目で見ている親友は誤魔化せそうになかった。その視線に、心に刺さっている荊が痛みを放つ。
「自覚してるくせに」
 ぼそっと呟かれ、誤魔化しきれずに太陽は深いため息をついた。
「わかってるよ」
 力ない言葉を吐くとともに、脳裏に悲しげな焦げ茶色の瞳が浮かぶ。息苦しくなるほど、それが辛い。だが、なるべく自然に彼女を避けること以外、どうしていいのかわからなかった。
「でも、星良のことちゃんと見ろって言ったの月也だろ」
 八つ当たりだとわかりつつも拗ねた声でそう言うと、月也は小さく肩をすくめた。
「言ったよ。言ったけどね、だからといって久遠を避けるのはどうかなーと」
「……二人をいっぺんに見るなんて無理だよ」
 ひかりの気持ちは、あの時聞いてしまった。それだけでなく、近頃の彼女の視線でその気持ちを確信する。自分を見つめる、真っ直ぐな視線。秘めていた想いを今は隠すことなく伝えてくる。
 それを感じるたびに、太陽は自分の心を必死に閉じようとしていた。気を緩めると、どうしようもないほどの熱い気持ちがこみ上げる。それがどんな感情なのか、気づかないようにするのが精一杯。見つめられるだけでこうなのに、見つめあってしまったら、会話してしまったら、微笑みあってしまったら、この気持ちを抑え切れる自信がない。
 できるだけ不自然じゃないように彼女を避けるのことが、太陽が自分の想いを押しとどめる唯一の手段だった。
 そうしなければ、星良を恋愛対象として見られるか考えることすらできないと思ったのだ。星良の涙は、苦しげに熱でうなされる姿は、太陽にとってひかりの悲しげな瞳よりも辛いものだった。もし星良を恋愛対象として好きになれるのなら、それが一番いいと思う。だから、今は星良だけを見つめてあげたい。
「避けなきゃいられないほどの想いを、変えられるものかね?」
 ぼそっと呟く月也を、太陽は横目で睨む。
「月也はどうしてほしいんだよ」
「だから、星良さんが笑顔ならそれでいいんだってば」
「だから俺は……」
 続けようとした言葉は、月也の真っ直ぐな瞳に止められた。太陽は言葉を飲み込み、親友の真剣な眼差しを見つめ返す。
「太陽が久遠を避けてること、星良さんが知ったら悲しむよ。そういう人でしょ」
「っ……」
 誰よりも知っていると思っていた星良のことを月也に諭され、太陽は息をのんだ。
 ひかりと星良の気持ち、そして自分の気持ちでいっぱいいっぱいになっていて、周囲の事がよく見えなくなっていたらしい。月也に言われなければ、星良が自分の行動をどう感じるか分からなくなるほどに……。
「でも、じゃあどうしたらいいんだよ……」
 ひかりに惹かれている自分がいる。だが、星良を誰よりも大事だと思う自分もいる。
 矛盾した想い。でも、どちらも真実だ。
「一所懸命悩めばいいんじゃない?」
「つーきーやー」
 くすっと笑って答えた親友の名を恨みがましく呼ぶ。月也は眼鏡の奥の瞳を三日月型に細めた。
「大切な人の気持ちに合わせることも大事だけどさ、自分の気持ちに嘘つくのは相手にとっても悲しいことだよ。互いに大切に思ってるならなおさらね。互いに傷つけないように上辺だけ相手に合わせる関係は、長くは続かないよ。たとえ傷つけあうことがあっても本音で向き合えば、その時悲しませたとしても、きっと絆は繋がってく。誰も傷つけず、誰からも傷つけられず生きてくなんて無理なんだから、そこに怯えすぎるのはよくないよ。自分の気持ちも大切にしながら、相手の気持ちと向き合うのが大事だと思う」
「……うん」
 自分も星良も思いやる月也の気持ちが伝わり、太陽は素直に頷いた。
 自分は今、目の前にいる星良にもうあんな悲しい顔をさせないことだけを考えていた。自分が星良だけを見つめれば、そうできると思っていた。
 だが、違う。星良は自分さえよければいいと思う人間ではない。自分の気持ちも、ひかりの気持ちも、大切に考えてくれるはずだ。
 星良のことを見ようとするばかりに周りが見えなくなっては、星良も喜ばないだろう。
「もうちょっと肩の力抜きつつ、一所懸命悩んでみる」
「ま、頑張って。ところで、星良さんとのデートはどうだった?」
 興味深げに聞いてきた月也に、太陽は笑みを浮かべつつ昨日の様子を話しだした。

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