始業前、教室からふらりと出てきた星良を見かけた太陽は、胸中で小さく嘆息した。昨日も様子がおかしかったが、それをまだ引きずっているらしい。『悩みがあります』と素直に顔にかいてある。昨日の自分の言動では、癒すことができなかったようだ。
 今までは星良がどんなに落ち込んでいても、傍にいれば笑顔にすることができたのに……。
 そう思うと実際にため息が零れた。
 今は笑顔にできないどころか、自分が星良を苦しめている。それが、胸に痛い。
「おはよう、星良」
 息苦しさを追い払い、笑顔で声をかける。と、一拍遅れてから太陽の存在に気づく星良。
「あ、おはよ。太陽」
 慌てて笑顔を浮かべた星良を見て、太陽はぱちぱちと目を瞬いた。あれ? と思う。
 長年の付き合いから、その反応で何を考えているかなんとなくわかる。今、星良の中に自分の存在はなかったようだ。昨日とは違い、別のことで思い悩んでいたらしい。
 己の自惚れに内心苦笑を浮かべていると、星良は太陽の背後に何かを見つけ、うろたえたのか一瞬目を泳がせた。どうやら、今の星良の悩みの種はそっちらしい。
 誰かと思って振り返ると、見慣れた姿があった。
「おはよー、二人とも」
「おはよ、月也」
 にこやかに近づいてきた親友に挨拶を返したが、隣にいる星良からは声があがらない。どうしたのかと思えば、きゅっと唇を噛んで月也を睨んでいる。
 そんな星良に月也がニコリと微笑むと、星良の頬にサッと朱がさした。
「おはよ、星良さん」
「お、おはよ!!」
 捨て台詞のようにそう言うと、もうすぐ始業時間だというのにどこかに走り去る星良。太陽があっという間に消え去った星良にキョトンとしていると、横で月也がくくっと可笑しそうに笑う。
「星良さん、可愛いなぁ」
 三日月のように目を細め、星良が立ち去った方向を見つめている月也の顔には『確信犯』と書いてある。星良が頬を染めて逃げるようなことをした自覚があるようだ。
「月也?」
 問いただすようにじとっと半眼で月也を見ると、親友は唇の片端を意味ありげに上げる。それと同時に予鈴がなった。
「昼休みにでもゆっくり報告するよ」
 くすっと笑い自分の教室に入っていく月也を太陽は小さく嘆息しながら見送ると、自分も教室に急いだのだった。


「かおる先輩と別れた?」
 こっそりと屋上に忍び込み、天高い青空の下、冷たくなった風を感じながら昼食をとりはじめた太陽がまず聞いたのは、その報告だった。月也は購買で買ってきたパンを頬張りながら、太陽の言葉にこくりと頷く。
「そ、今回は僕から、ね」
 告白するのも彼女から、別れの言葉も彼女からが今までの月也のパターンだと知っているからこそ、月也自らが別れを切り出すにはそれなりの理由があると太陽も察しがつく。少なくとも、月也がこれ以上付き合えないと思うような理由がかおるには見当たらない。月也なりに大事にしていたのを、太陽も見てきた。
 だが、思い当たる理由は一つある。かおるのせいではない。今まで、月也が彼女に別れを告げられた理由と同じ。月也が彼女よりも大事にしている存在――。
 太陽が何を思ったのか気づいたのか、月也は目を細めた。
「僕も、本気になろうかと思って」
 挑むように見つめてくる眼鏡の奥の茶色の瞳。
 見慣れぬ親友の表情に、太陽の心臓がドクンと鳴る。
 月也が誰を一番大事に思っているか、ずっと一緒にいればわかる。
 でも、出会ったころからその想いと恋愛感情を別にしているのも気づいていた。
 大切な想いに、どこかで線を引いている。
 その理由を尋ねたことはなかった。
 自分も星良が一番大事で、でも恋愛感情とは別だったから。
 それに、三人でいることが楽しかったから、それでよかった。
 だが、星良の告白によってその心地よいバランスが崩れた今、月也もまた、その線を踏み越えようとしている。
「星良に……伝えたのか?」
 思わず掠れた声に、太陽は微苦笑を浮かべた。自覚しているよりも、動揺しているらしい。喉を潤そうとペットボトルから水分補給しようとした太陽に、予想以上の爆弾が落とされる。
「うん。あまりに鈍すぎるから、キスしてから告白したよ」
「っ……」
 衝撃の報告をさらりとされ、太陽は飲みかけの水分が変なところに入りゲホゲホと咽る。大丈夫? と言いながら背中をさする月也を、太陽は横目で睨んだ。
「つ、きや……お、前……」
 咽たせいか、動揺したせいか、赤くなった頬の太陽とは対照的に、月也はまったく動じた様子もなく微笑を返す。
「星良さん、真っ赤になって可愛かったよ」
「…………」
 どこか挑戦的な瞳を、太陽はただ見つめ返した。
 挑発するように唇の片端を持ち上げる月也だが、眼鏡の奥の瞳に宿る優しさは隠しきれていない。
 月也のことだ。ただ自分の想いを告げたかっただけではないだろう。
 星良が太陽にしたことを知っていて、それと同じことを星良にしたのだ。きっと月也なりの理由がある。
 友達として平穏に傍にいるよりも、大事だと思える理由が。
 親友の本心を読み取ろうとじっと見つめる太陽の沈黙に負けたのか、月也は目を逸らすと小さく肩をすくめた。
「っていうかさ、星良さんひどいんだよ」
「……その頬の傷? ひっかかれたくらいで済んだならいいほうじゃないか?」
 星良の反撃が頬に残る薄くなった赤いラインならだいぶ軽傷なほうだ。
 小首をかしげた太陽に、月也はふるふると首を振る。
「いやいや、これはかおるさん。星良さんに反撃されたこんなものじゃすまないでしょ」
 だったら何? と目で訴えてから、太陽は再びペットボトルを口にする。
 それを見計らってか、月也はニヤリと笑むと口を開いた。
「真剣な顔で、僕の好きな人、太陽じゃないかって言ったんだよ?」
「!?」
 思わず水分を吹き出す太陽を見て、月也はククッと笑う。ゲホゲホと咳き込んでから、太陽は月也を軽く睨んだ。
「そういう冗談は……」
「いや、本当に言ったんだって、星良さん。真面目な顔で『月也ってあたしのライバル?』って。ビビるよねー」
「…………」
 半眼で親友を見つめる太陽に、月也は眼鏡の奥の目を細める。
「キスしてわからせたくなる気持ち、わかってもらえた?」
「あー……」
 言外に、自分もそれだけ相手の気持ちを勘違いしていたんだぞと言われているようで、太陽は微苦笑しか返せなかった。
 月也はぺろりと昼食を食べ終えると、ごちそうさまでしたと手を合わせ、それからじっと太陽を見つめた。
「太陽、告白したからには、僕も本気をだすからね」
「……うん」
 太陽は真顔で頷いた。
 星良も、太陽も、ひかりの気持ちをも知った上での月也の告白。何か考えがあるとしても、その気持ちは純粋な想いからに違いない。
 そもそも、月也が星良を想うことを、太陽が止める権利などない。
「うんって、太陽、わかってる? 僕は太陽と違って、星良さんの事ちゃんと異性として見てるからね。太陽が星良さんにできないことも、僕はしちゃうからね?」
 ふっと笑む月也の瞳には甘やかな光。何を言わんとしているか、さすがに太陽もわかる。
「それは……無理やりじゃなきゃ……。俺に止める権利はないし……」
 言いながらも、心の中にはもやもやとしたものが広がる。
 太陽の中で、星良はいつまでも純粋な少女のままだ。キスされても、告白されても、それはまだ変わらない。抱きしめても、そこに愛情はあっても、それ以上の感情はわきあがってこない。
 でも、月也は違うのだ。
「そうだよね。止める権利があるのは、付き合ってる人だけだし。答えを保留にしっぱなしの人にはないよね。っていうか、まぁ、略奪愛もありだから、結婚してるわけじゃなきゃ、彼氏でも権利ないか」
 くすっと笑う月也には、やはり挑発の色が浮かんでいる。
 喧嘩を売っているわけではない。星良への想いをはっきりできずにいる自分への挑戦。
「ま、そんなわけだから、今日から道場もまた真面目に通うから。よろしくね、太陽」
 ゆっくりと立ち上がり、まだ座ったままの太陽の肩をぽんっと叩くと、出口に向かって歩いていく月也。
 悩ましげな太陽の背中をちらりと見つめ、太陽の中に波紋が広がっているのをみとって唇の端をあげる。
「これで動かなかったら、本当に奪っちゃうからね」
 ポツリとつぶやいた言葉は、風に乗って太陽の耳に届くことはなかった。

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