あまり眠れない事のない星良だったが、珍しく、その夜は寝付けなかった。胸に刺さった得体の知れない棘が神経を刺激して、眠りの世界に向かわせてくれず、何度も寝返りをうった。自分らしくない状況に、戸惑いを隠せなかった。
 結局、日が昇ると共に星良はベッドを抜け出した。顔を洗い、道着に着替え、まだ誰もいない道場に足を踏み入れる。かたく絞った雑巾で広い道場を拭き、次に乾拭きをする。それから道場の真ん中で正座をし、瞳を閉じて精神統一をした。ベッドでは拭いきれなかった雑念も、この場所なら追い払い、無心になる事ができる。星良にとって、道場はそういう場所だった。
 どれぐらいそうしていたのかわからない。自分の心が、波一つない湖面のように澄み渡った頃、ゆっくりと目を開けた。
 その瞬間、ざっぱーんと音が聞こえた気がするほど大きな波が、星良の心を襲った。
「やっと気がついた」
「ひょっとして寝ちゃったんじゃないかと思ったよ、星良さん」
「な、何してんの? っていうか、いつからいたの!?」
 星良から数メートル程離れた壁際に、道着に着替えた太陽と月也が座っていた。いつもならその距離に人がいる事に気づかないはずがないのだが、すっかり自分の内に神経を向けていたらしい。目を開けるまで、まったく気付かなかった。
 心構えをするまえに太陽の微笑みを目にし、心臓が妙な具合にばくばくいっている。
「来たのは五分くらい前かな」
「本当に星良さんいるんだもんなぁ。朝早すぎ」
 困惑して太陽に視線をおくると、太陽は目を細めた。
「星良が昨日のこと気にしてて、気を鎮める為に一人で朝練すると思ったんだよ。だから、一人でするより相手がいた方がすっきりするかと思って来たんだ」
「で、早起きして来てみたら、星良さんが精神統一中でなかなか気づいて貰えなかったってわけ。もー、こっちが寝るかと思ったよ」
 あくびをかみ殺す月也を、太陽がおかしそうに横目で見る。
「別に、月也に付き合えって言った覚えはないんだけどな」
「でも、僕も無関係じゃなかったわけだし、太陽が行くなら僕だけのんきに寝てるわけにもいかないでしょ」
 二人の気遣いに、星良は自然と微笑みが浮かんだ。
「ありがと、二人とも。月也なんか、昨日殴られたのに……」
 素直に礼を言った星良だが、すぅっと月也の目が泳いだのに気付いた。それで、ふと気付く。昨日は太陽やひかりのことで頭がいっぱいで気付かなかったが、殴られたわりには月也の頬は何ともない。昨日も赤くなってすらいなかった気がする。
「あ、わざと殴られようとしたの、僕だけじゃないからね」
 星良が口を開く前に、先手をうって月也が言った。とたんに、太陽が慌てたように月也を見る。
「そこで、オレを巻き込むのかよ」
「だって、太陽だって同じ考えでのあの言動だろ。同じ同じ」
 二人のやりとりに、星良は眉根を寄せた。
「えーと、何? 月也が挑発して殴られたのも、太陽が代わりに殴られるって言ったのも、同じ理由って事?」
「まぁ……そうだな」
 観念したように、太陽が認めた。よくわからないと顔に書いてあったのか、月也が後をつぐ。
「つまり、僕が久遠を確保する隙を作ろうとしたってこと。僕が殴られて星良さんが切れてくれたら、相手がビビって隙ができるかなーと思ったけど、これは失敗。で、太陽が相手の話しの流れにのって、自分が殴られてる隙に久遠を助ける様に目で合図してきたから、僕がそれにのっかったんだけど、そうなる前に久遠が切れたってわけ」
 星良は数度目を瞬き、それから太陽を見つめた。
「だったら、別に太陽があたしの代わりにならなくたって、あたしが殴られても同じ事じゃない?」
 ひかりを助けたかったなら、それでいいはずだ。男たちは自分を狙っていたのだから、思い通りにさせたほうが、ひかりから気が逸れるに違いない。わざわざ、代理を申し出る必要などないはずだ。
「同じじゃないだろ」
 呆れ顔で太陽が答えた。
「久遠さんを助ける為でも、星良が目の前で殴られる所を黙って見ていられるわけないじゃないか。それに、星良は素直だからまともに殴られるの目に見えてたし。一撃だってくらわせたくないよ、オレは」
 本気でそう言っている太陽を見て、星良の心はふわりと暖かなものに包まれた。大切だと言われているようで、顔がにやけそうなほど嬉しかった。
「そうそう。僕や太陽なら、相手に気づかれないように威力ころして受けられるしね。バカ正直に殴られそうな星良さんよりマシ」
 月也の言い方にちょっとむくれるが、一応、自分の事を気遣ってくれているようなのでそれ以上は言わずにおいた。今日だって、自分の為に早起きして来てくれたのだ。
 二人の、そんな気持ちが嬉しかった。心に刺さっていた得体のしれない棘が、ポロっと取れた気がした。
 もう一度お礼を言おうと、口を開きかける星良。だが、その前に太陽が苦笑いを浮かべながら言葉を発した。
「でも、相手を仕向ける為とはいえ、星良を不安にさせるような事を言ったのは悪かったよ。久遠さんにも、帰りにもう一度叱られた。作戦だったとしても、星良ちゃんにあんな顔させたのはよくないって」
 困った表情を浮かべながらも、声も眼差しも柔らかい太陽。それが、ひかりのことを考えているからだと感じた時、抜け落ちた棘が倍増してぐさぐさと星良の心に突き刺さった。
「久遠さんも、まっすぐだからなぁ。だから、星良とも気があうのかもな」
 笑いかける太陽が、眩しかった。ひかりを語る瞳が、キラキラと輝いて見えた。
「うん。そうだね」
「だから、今朝は不安にさせた罪滅ぼし。思う存分つきあうよ、星良」
「ありがと」
 返事をしながらも、息が苦しくなるほど棘がささり続けていた。
 今日来てくれたのは、自分のため? それとも、ひかりに言われたから?
 今までなら思いもしなかった事が、ぐるぐると頭をめぐる。
 そして、思った事を口にできないことも苦しかった。
 今までは、何でも言ってきただけに、それは初めての経験だった。
 何で自分がこうなっているのかわからない。
 笑顔の太陽を見て、苦しくなる理由が理解できない。
 今、自分はちゃんと笑えているのか不安になってきた時、月也が眼鏡の奥の目を細めたのが目に入った。
「まー、もとはと言えば、悪者とみなすと後先考えずにつっかかっていく星良さんが悪いんだけどねー。良く言えば素直だけど、猪突猛進なただの野獣って感じだよねー」
「ちょっと、何よそれ!」
 月也の言い草に、反射的にいつも通り怒鳴りながら立ちあがる。そそくさと眼鏡をはずし、腰を浮かして逃げ出した月也の後を追いかけ、道場を走りまわりはじめた。
 怒った振りをしながらも、少し月也に感謝する。
 あのまま、笑顔の太陽を向き合っていたら、どうにかなりそうだった。
 しばらく追いかけっこをしたあと、二人と交代で組手をはじめた。
 その間は、余計な事を考えずに済んだ。
 こんな時、無心になれる事をもっていることに感謝する。
 真剣な眼差しの太陽と向かいあっていても、その時だけは心の棘を忘れられた。
 だが、その反動だろうか。
 二人を相手に組手を続け、体力の限界が来て倒れ込んだ時、無心からいつもの自分の心に戻った時、自分を覗きこんだ太陽を見て、気付いてしまった。
「すっきりした? 星良」
「……うん」
 汗に濡れた髪をかきあげた、優しい太陽の笑顔。
 昔から、自分の隣に当たり前の様にあった笑顔。
 他の誰に向ける時よりも、優しく感じたその笑顔。
 それを見て、ストンと心のパズルがキレイにはまるかのように、わかってしまった。
 それが、その特別な笑みが、他の人に向けられる事が嫌だったのだ。
 太陽の特別を、ずっと独占したかったのだ。
 苦しかったのは、太陽がひかりに特別な感情を持っていると気付いたから……。
 ひかりの頭に触れようとして躊躇いがちに手を下ろした太陽が、ひかりを自分とは違った意味で大切に思っている事がわかってしまったから。
 自然に触れたいと思う程、愛しいのだ。
 家族の様に親しい自分とは違い、異性としてひかりを想っているのだ……。
 それに気づかない振りをしようとしたから、苦しかったのだ。
 気付くのが恐くて、自分の気持ちを閉じ込めたから、眠れなかったのだ。
 だから、すっきりした。
 太陽と月也が付き合ってくれたおかげもあるだろう。
 心の靄が晴れて、自分の気持ちがはっきりと見えた。
 星良は倒れ込んだ自分の頭を、くしゃくしゃと撫でる太陽をみて思う。

 あたしは、太陽が好きだ。
 幼馴染としてじゃない。
 一人の男の子として、誰にも譲りたくない程、大好きだ。と……。

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