何も考えられなかった。
 自分が今、悲しいのか苦しいのか怒っているのかもわからぬまま、星良は本能的に誰もいないところに向かって走っていた。無意識に太陽たちのクラスの前を通らないルートを選び、一人になれて声を出しても気づかれない場所にたどり着く。
 体育館の裏にある、普段は使われることのない旧体育倉庫。年に一度、体育祭で使用される道具がしまわれている場所で、お飾り程度に3ケタの番号を揃える鍵がついてはいるが、その番号は生徒たちの大半が知っていた。こっそりと使用している生徒も多々いて、鍵が開けっ放しのこともよくある。
 上履きのまま旧体育倉庫の前にたどり着いた星良は、鍵が鍵として役割を果たさない形でぶら下がっているのを見て、そのまま重い扉を開いた。まだ早い時間だからか、幸い先客はいない。
 中に入って扉を閉めると、明り取りの小窓からの僅かな光のみの室内は物の形がわかるくらいの薄暗さになった。一応電気もつけられるが、星良はそのまま倉庫の片隅にある折りたたまれた古いマットの上で膝を抱えて座りこんだ。つんとカビ臭いにおいが鼻をつくが、そんなことを気にする余裕もなかった。
 走って乾きかけていた涙が堰を切ったように溢れ出す。
 押し殺すことも出来ず、嗚咽が漏れる。
 学校内で切り取られたようなしんとした孤独な空間の中で、星良はまるで獣の咆哮のように泣き叫んだ。
 自分が何に対してどう感じたかもわからぬほど、ぐちゃぐちゃになった感情。
 それを洗い流すかのように、とめどなく温かな雫が流れ落ちていく。
 そこに、一筋の光がさした。
 誰かが扉を開けたのだと気づき、星良は膝の上に顔を乗せたままびくっと肩を揺らして嗚咽を止める。涙で濡れた顔をそっとあげると、逆光でシルエットしか見えないその人物が誰か、すぐにわかった。
 すぐに扉は閉められ、倉庫の中は再び薄暗い静かな空間へと戻る。
 再び胸の内から溢れ出る負の感情に涙腺がゆるみ顔を伏せた星良の前に、ゆっくりと歩み寄ってくる聞きなれた足音。それが星良の耳には、何故か優しく感じられた。
 すぐそばまでくると、しゃがみ込む気配。そして、何かを差し出された。
「気が済むまで泣いた方がいいと思うけど、泣き腫らした目だと教室帰りづらいだろうから、これどうぞ」
 ほんの少し顔をあげて差し出されたものを確認すると、ミニタオルだった。触れると冷たい。どうやら、水に浸して絞った後、保冷剤をくるんだらしい。
「冷やしながらの方が腫れないと思って、保健室でもらってきた。これ目に当てて泣いたほうがいいよ、星良さん」
 いつも通りの月也の口調にふつりと心の糸が切れ、堪えていた涙が滝のように流れ始める。
「だからほら、目に当てて、星良さん」
 微苦笑を浮かべた月也に無理やり保冷剤をくるんだミニタオルを当てられる。ひんやりと心地よいが、それは気持ちまでは癒してはくれない。タオルごと顔を膝にうずめ顔を隠し、星良は再び号泣する。
 月也はためらいがちにそっと星良の短い髪を撫でると、立ち上がった。
 そのまま行ってしまうのかと思ったが、月也は星良の背中側に回るとそこにすとんと腰を下ろした。そして、背中と背中がとんと当たる。
 そこから、月也の体温がじんわりと伝わってくる。
 暗闇を照らす柔らかな月の光のように、その温もりが闇に包まれた星良の心を優しく照らす。こんがらがった想いが、道しるべを見つけてだんだんとほどけていく。
 やがて声が嗄れ、涙が涸れるころには、どうしようもないほどに倦んでいた心は涙で洗い流されていた。
「落ち着いた?」
 背中越しに聞こえた声に、星良は頷いた。それを気配で感じ取ったのか、月也はゆっくりと立ち上がると星良の正面に回ってきた。目の前でしゃがみ、俯いたままの星良の顔を覗き込もうとする。
「顔、大丈夫?」
「しんぱっ……」
 心配するのは顔か! と反射的にツッコもうとして、喉が引っかかってゲホゲホと咳き込む星良。月也は苦笑を浮かべて少し移動し、星良の背中をさする。
「あん……たは、も……う……」
 先ほどとは違った意味で涙目の星良に、月也は眼鏡の奥の瞳を三日月型に細める。
「まぁ、ツッコむ元気がでたなら大丈夫かな」
「あの……ねぇ」
 掠れる声で返しながら半眼で睨むが、月也の言う通りなのでそれ以上の言葉は飲み込んだ。思いきり泣き喚いて、わけのわからない状態からは脱している。
 どこから取り出したのか、月也が差し出してくれたペットボトルのお茶で喉を潤すと、星良は月也を見つめた。
「……月也は、知ってたの?」
 質問する余裕はできていた。
 だが、痛みがなくなったわけではない。それを堪えるように、星良は膝をぎゅっと抱える。
「知ってたらこの世から抹消してるよ、あんな動画」
 見た目は微笑を浮かべているように見えるが、吐き捨てるように冷たく言い放つ月也。星良のように感情を表に出すタイプではないのでわかりにくいが、静かに怒っているらしい。
 一瞬張りつめた空気が流れたが、月也はすぐに肩の力を抜くと小さく項垂れた。
「いつもなら気づけたはずなんだけどね。星良さんとのデートが楽しくて浮かれてたんだなー、きっと」
「……あのね」
「本当だよ?」
 半眼になった星良だったが、顔をあげた月也の艶のある視線に思わず目をそらす。この月也は、苦手だ。
 そのまま沈黙が流れること数秒。静寂を先に破ったのは月也。
「あのね、星良さん。僕が言わなくてもわかってると思うけど……」
 真面目な声音に、星良は視線を月也に戻した。
 心配そうな瞳が、眼鏡の奥から真っ直ぐ星良を見つめている。
「わかってるよ。ひかりが、唯花の言うような子じゃないってことくらい」
 月也の心配は、目を見ればわかった。星良を気遣い、幼馴染も気遣った優しい瞳。
 だが、星良が映像を見て激しく取り乱したのは、彼女の言葉に翻弄されたからではない。
 二人に隠されていたことが、他人から真実を突き付けられたことがショックだった。
「きっと、あたしに気を遣って言わなかっただけだって、わかってる。二人とも、優しいから……」
 その優しさが、今は心の傷を深くえぐる。
 想いが通じたひかりが自分を憐れんでいるつもりではないとしても、隠されていたことが悲しみとも怒りともとれる感情を呼び起こす。
 傷つけるのをわかっていても、ちゃんと本人たちから聞きたかった。結果、同じように泣くことになっても、その方がよかった。
 今更どうにもならないとわかっていても、そう思ってしまう。
 それに……。
「正々堂々勝負したら、すっきりすると、思った。でも、全然そんなことなかった……」
 自分の想いを吐露しながら、膝を抱く手に力がはいる。爪が太ももにくい込んでいるが、星良はそれに気づかない。
「なんで太陽に抱きしめられてるのがあたしじゃないの? 太陽の隣は私の居場所だったのに……。そう、思っちゃうの。その場所を取らないで。そこはあたしだけのものなのにって……」
 涸れたはずの涙が、再び頬を濡らす。
「ひかりのこと、好きなのに、おめでとうって言えない。どんな結果になっても、また今まで通りの友達に戻れるって思ってたのに、今はそんな気持ちになれない。太陽に幸せになってほしいのに、あたしじゃなきゃやだって、どうしても、そう思って……」
「もういいよ、星良さん」
 しゃべれなくなった星良の頬に流れる涙を、月也は長い指で優しく拭った。
 しゃくりあげる星良を、穏やかな眼差しが捉える。
「その気持ちを責める必要なんてないよ。そんなの、誰でも持ってる気持ちなんだから。逆に、星良さんの立場であの映像を見ておめでとうって思える人がいるなら会ってみたいよ」
「でも……あたしが、言いだしたのに……。ひかりは、悪くないのに……。あたしが、悪いのに……」
 理性で考える自分と、心で考える自分が一致しない。悪くないと思っているのに、嫌だと思う自分をどうしても消せない。
 ひかりが恨めしい。でも、そんな風に思ってしまう自分が許せない。
 心が引き裂かれそうな痛みで悲鳴をあげる。
 と、月也の手が星良の手にそっと重ねられた。
 足にくい込んだまま固まっていた指を、一本ずつはがしていく。
「あのね、星良さん。悪と正義の間だけに争いがあるんじゃないよ。きっとそんな争いの方が世界では少ない。お互いに正義でも、諍いは起こる。相手を大事に思っていても、愛していても、憎むときもあるし傷つけることもある。だから、世界から争いはなくならない」 
 10本の指全部を足からはがし、月也は近い距離で星良の漆黒の瞳を覗き込む。
「でも、そんな感情を乗り越えて、また新たな関係を築くことができるのも人間の凄いところだよ。すぐには受け入れられなくても、いい。前と同じ関係に戻る必要もない。本当に必要な相手だったら、また新たないい関係を築けるよ。大丈夫」
「でも……、ひかりは……」
 悪いことをしたわけではないのに、約束を反故にするような態度をとったら、ひかりは傷つくだろう。理不尽だと思う。
 だが、月也は小さく首を振った。
「何かを得るのに、何の代償も支払わないなんてことはないよ。太陽という宝物を得たのに、誰からも祝福されるだけなんてこと、ありえない。そこは久遠が対価として乗り換えなきゃいけない試練だよ。星良さんがそこまで気づかう必要なんてない。星良さんは、もっと素直に悲しんでいいんだよ?」
 自分を甘やかす言葉に流されないように、星良はぎゅっと唇を噛む。
 ただひかりを羨み、嫉妬し、自分を憐れむだけのほうがきっと楽だろう。
 でも、そんな自分は嫌だ。そんなのは、自分の目指す自分じゃない。
 必死に堪える星良だったが、きつく噛んだ唇を突然月也の綺麗な指でなぞられ、一瞬思考回路が停止する。
「なっ……」
 思わず重ねられた唇を連想し、言葉も出ずに赤くなる星良。
 月也はしれっとした顔で、僅かに唇の端だけあげる。
「あまりきつく噛むと、血が出ちゃうと思って」
「そ、そう言うのは口で言えば!!」
「だって、口で言っても聞いてくれないから」
 言ってマットに膝をついた月也は、膝を抱えたままの星良を抱きしめた。
 驚いて身を固くする星良の耳元で月也は小さく囁く。
「もっと僕にも甘えてよ、星良さん」
「……え、う、あ……」
 動揺して言葉にならない声が漏れる星良を抱きしめる腕に、月也はもう少し力を込める。
「好きな子が、自分自身を責めてる姿を見たい奴なんていないよ? しかも、責める必要なんてないのに。もっと素直に悲しんで、誰かに甘えていいのに。愚痴ってもいい。僕にも星良さんの痛みを半分背負わせてよ」
 熱い吐息に、優しい言葉に、星良の心臓が早鐘を打つ。
 だが、理性がそれを無理やり押しとどめようとする。
「でも、それも、ずるく、ない?」
 とぎれとぎれになんとか言い返す。
 月也の気持ちを知っていて、でも自分は他の好きな人の為に傷ついているのに、その痛みをわかちあってもらうなど、ムシが良すぎるのではないだろうか……。
 だが、優しく包み込むようだった月也の腕が、少し乱暴に力を入れる。
「頼りにしてほしいのに、頼りにされない方が傷つくんですけど……」
「…………」
「だから、頑張りすぎないで甘えてください。星良さんが一番甘えたい人に、今は甘えられないんだから」
 少し拗ねた口調の後の、甘く切ない声。
 脳裏に太陽の笑顔がよぎり、再び星良の涙腺が緩む。
「もう少し、泣いてもいい?」
「どうぞ、気のすむまで」
 月也の優しい声に、星良は月也にしがみつく様な姿勢になると再び泣き始めた。
 ただし、今度はひかりのことは頭にない。
 ただ素直に、太陽の心が他の人に奪われてしまった悲しみ。自分が恋愛対象として選ばれなかったことの苦しみ。
 綺麗ごと抜きのシンプルな感情で涙を流す。
 自分を包み込む温もりが、その悲しみを優しく包み込んでくれる気がしていた。

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