月也を全力で避けはじめてからまる三日と半日。星良は少し動揺していた。
 最初は避ける星良にいかに近づこうかと試行錯誤していた月也だが、昨日からそれがぱたりと止んだのだ。学校ではクラスの男子と談笑しているだけで星良を気にするそぶりもなく、放課後に神崎道場にも来たようすもない。今日も学校が終わるまで、一度も視線を向けられていなかった。
「……何なのよ」
 すっかり暗くなった公園で一人、星良はブランコに座りながら唇をとがらせ、ぼそりと呟いた。
 自分から避けだしたくせに、こんなにも早く月也に関心を向けられなくなったことに狼狽えていた。かおるの言うことはもっともだと思ったし、月也から距離を置いた方がお互いの為だと思っての行動だったのに、薄情だとか、寂しいとか思っている自分がここにいる。我が儘にもほどがある。
 太陽とひかりのことも考えなければいけないのに、ここ数日は月也のことを考えている時間の方が多い。自覚していたよりもずっと月也のことを頼っていた自分に今更ながら気づき、星良の頭の中はさらに混乱を極めていた。
 今日はほどよく身体を動かせたものの、気持ちは全くスッキリしていない。星良はショートヘアをぐしゃぐしゃとかきむしりつつ、盛大な溜息をついた。
 と、ゆらゆらとブランコを小さく揺らしながら地面ばかり見ていた星良の耳に、トトッと軽やかな足音が近づいてくるのが聞こえた。人間の足音とは明らかに違うその音に顔を上げると、ブランコの周りを囲む柵をくぐるようにして、一匹の犬が星良に駆け寄ってきた。長いリードを引きずりながらやってきた柴犬は、星良の目の前にちょこんと座ると、くるんとした尻尾を左右に揺らしながらキラキラとした瞳で星良を見上げる。「撫でて撫でて」と言われているようで、星良は自然と頬を緩ませながらその頭を優しく撫でた。
「ご主人様はどう……」
 愛らしい柴犬につい話しかけた星良は、途中で言葉を途切らせた。似たような柴犬を飼っている人を思いだしたからだ。
「ま、まさか、凜ちゃん?」
 ワゥッ! と吠えたのは、偶然か、返事をしたからか……。
 悩みつつ、地面に落ちたままのリードを拾い上げる星良。迷子なら、放っておけないと思ったからだ。リードを握り、再びブランコに腰を下ろす。
「そのまま捕まえててくれると嬉しいな、星良さん」
 突如聞こえた声に、びくっと身体を震わせる星良。焦った風もなくゆっくりと歩み寄ってくる人影から逃げようと思ったが、その前に柴犬の凜がひょいっと前足を星良の膝にのせたので、逃げるタイミングを失った。目の前の凜はハッハッと舌を出しながらつぶらな瞳で星良を見つめ、まるで「ご主人から逃げちゃダメだよ」と言っているかのようだ。月也が星良の足止めに凜を差し向けたのなら、たいしたしつけだと思う。
 薄暗い場所を抜け、ブランコの傍にある街頭の下までやってきた月也は、いつもと変わりのない笑顔を星良に向けた。
「ありがとう、星良さん。凜、一人で勝手に行っちゃダメだろ?」
 月也に声をかけられると、凜は星良の膝の上から足を下ろし、トトッと月也に駆け寄った。歩み寄ってくる月也の隣まで行った凜は、そのまま星良に向かっていく月也にあわせて方向転換すると、月也に合わせるように歩いて戻ってきた。
 その様子を見ていた星良は、目の前に立った月也に半眼でリードを差し出す。
「そんないい子の凜ちゃんが、勝手に一人でいくとは思えないんですけど」
 言外に月也の指示だろうと伝えたのだが、月也は悪びれた風もなくニコリと笑んだ。
「そんなことないよ。凜、星良さんが大好きだから、近くにいるのに気がついて、ついつい先に行っちゃったんだよな?」
 ワゥッ! と尻尾を振りながら嬉しそうに返事をされては、星良も否定しようがない。
 逃げるタイミングも失い、どうしていいのかわからずにふて腐れたような表情を浮かべていると、月也は隣のブランコに腰を下ろした。
「……昨日から無視してたくせに」
 あまりにいつも通りの月也に、聞こえるか聞こえないかくらいの小さな声で抗議すると、月也は小さく肩をすくめた。
「僕はいつも通りにしてただけだよ? 星良さんがかまってほしくなさそうだったから」
「そんなの……」
 ウソ、と言いかけた星良は、冷静に考えると月也の言うとおりだと気づいて言葉を飲み込んだ。
 確かに、星良がひかりや他の女子と一緒にいた時の月也は、普通に男子たちと談笑して休み時間を過ごしていた。最近、学校でもやたらかまってくるのは、星良が他の人には相談しづらい悩みを抱えているからだ。道場だって、太陽ほど熱心に通っているわけではないので休むことだってある。そう考えれば、通常仕様と言えば通常仕様だ。
「まぁ、しつこく追いかけても勝ち目はないから学校ではそっとしておいて、裏で情報収集した方がいいかなーと思ってはいた訳だけど」
 何も言えなくなった星良に、月也は笑いを含んだ声でそう言った。
 何がおかしいのかと軽く睨んだ星良に、月也は凜の頭を撫でながら微苦笑を浮かべる。
「僕と顔を合わせたくないから稽古が終わる時間まで外で暇を潰すのはいいけど、不良たちを一掃して歩くっていうのは、さすがにどうかと思うよ?」
「それは……」
 星良は思わず目を反らした。
 悪の撲滅と身体を動かせるという、星良にとっては一石二鳥の暇つぶしだったのだが、人に指摘されると確かにどうかと思う。恋愛で悩んでいる乙女のストレス解消とは思えない所行ではある。
「まぁ、星良さんらしいと言えば星良さんらしいけど」
 クスクスと笑う月也の横顔を見ながら、星良の胸がきゅっと痛んだ。
 あからさまに避けていた自分に、文句の一つもない。傷ついた様子も見せない。好きな人に避けられて、嫌な想いをしないわけがないのに……。
「星良さんは、僕がそばにいたら迷惑?」
「っ……」
 突然のストレートな問いに、星良は思わず息をのんだ。月也に深刻な様子はなく、凜に向ける優しい眼差しを、そのまま星良に向ける。
「他の人の感情は抜きにして、星良さん自身がそう思うのなら、僕は傍にいるのをやめるよ」
 月也の言葉に、星良の瞳が揺れた。自分自身で距離を置こうとしたくせに、月也から言われると想像以上の痛みが胸に突き刺さった。
「かおるさんとはちゃんと話したし、かおるさんのことは僕の問題であって星良さんが気にする必要はない。それは抜きにして、答えて欲しい。僕の存在は、星良さんにとって迷惑? 必要、ない?」 
「…………」
 真っ直ぐに見つめる月也の茶色の瞳を、ただ見つめ返すしかできない星良。気にするなといわれても、気にしないわけがない。だが、痛んだ胸が示した答えを口にするのも図々しい気がする。
 答えられないまま数秒が過ぎると、月也が眼鏡の奥の瞳を三日月型に細めた。
「うん、わかった」
「何がっ!?」
 思わずつっこんだ星良に、月也はニヤリと笑む。
「顔に僕のことが必要って書いてあった」
「なっ……」
 自信ありげな月也の笑みに、反駁の言葉よりも先に顔が赤くなってしまう。それが図星だと証明するようで、星良は隠すようにそっぽを向いた。
「別にいいよ、口にしなくても。星良さん、わかりやすいから」
 試されたと気づき、唇を尖らせる星良。満足げに凜の頭を撫でている月也を、横目でちらりと見る。
「でも、月也は嫌じゃないの?」
「何が?」
「他の人を好きな人の傍にいること」
 思い切って尋ねると、月也は苦笑を浮かべた。
「それ、前にも言わなかったっけ?」
「聞いたけど……」
 それでもやっぱり、考えてしまう。月也に甘えるのは、ずるいことじゃないかと。
「僕は大丈夫だよ。ここ数日星良さんに避けられてる間も、避けられてる間は僕のことばっかり考えてるだろうなー、って、一歩間違えたらストーカーになりそうなポジティブ思考でいたしね。傷ついてないよ?」
「そ、そうなの?」
 それが事実なら、深刻に悩んでいた自分は何だろうとちょっぴり思う星良。星良に重荷を背負わせないためのウソともとれるが、果たしてどうなのだろうか? 実際に月也のことばかり気にしていたわけで、それを見透かした月也に、後半は逆に翻弄された気がしなくもない。わざと身を引いて、星良の動揺を誘ったようにも思える。
「そうだよ。星良さんに本気で嫌われない限りは、僕は大丈夫。嫌われるのと、一番に選ばれないのとは、違うからね」
 あっけらかんと言う月也を、星良はじっと見つめた。
 自分は一番になれなかったことに深く傷ついた。でも、嫌われたわけでもなければ、もう傍にいられないわけでもない。避けられもしていないし、相変わらず大事にしてくれている。月也のように強くはないけれど、月也を見ているとここまで落ち込んでいる自分の方がおかしいのかと少し思いはじめる。
「それに、やっぱりちょっと脈有りな感じだしねー。ね、凜?」
「ワゥ!」
「ちょっ! 何勝手なこといってるの!?」
 楽しげな一人と一匹につっこむが、つっこまれた方は楽しげにじゃれ合っているだけだ。
 星良は唇を尖らせる。
「どうやったら、そんなポジティブになれるかな……」
 呆れたように呟いた星良に、月也は子供のような笑みを向けた。無垢な瞳にドキッとした星良は、さらにとどめを刺される。
「それは今、大好きな人の傍にいるからだよ」
「っ…………」
 かぁっと頬を朱色に染めた星良を眩しそうに見つめた後、月也はブランコから立ち上がった。そして、リードを持っていない手を星良に差し出す。
「そろそろ帰ろう、星良さん。ずっと外にいたから、冷えたでしょ?」
「……うん」
 月也から逃げ回ることを諦めた星良は、その手をそっと取って立ち上がった。その手の温もりが、冷えていた心まで温めてくれる気がする。だが、さすがに手をつないだまま帰るのはためらわれ、すぐにその手を離した。
「星良さんがリード持つ?」
 代わりに凜のリードを差し出され、星良は頷くとそれを受け取った。
 凜を間に挟み、二人で並んで歩き始める。
 星良は歩きながら、ちらりと月也の横顔を見た。
 かおるの言うことはもっともで、かおるにも月也にも申し訳ないという気持ちは変わらない。でも、月也に傍にいて欲しいと願っている自分に気づいてしまった。それが我が儘でも、ずるいことでも、月也が笑顔で許してくれるなら、それに甘えてもいいだろうか?
 そう思った瞬間、月也が星良を見て微笑んだ。
 タイミングの良さに驚きつつも、星良にも笑顔が浮かんだ。
 ここ数日の心の重さがウソのように消え、久しぶりに柔らかな気持ちが星良を包んでいた。

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