たぶん、人生で一番怒りに満ちていた。
 武道をたしなむ自分の拳や足は凶器であると幼い頃から嫌というほど言い聞かされ、星良はどんな相手とケンカになろうが相手に深刻なダメージを与えないだけの手加減を忘れたことはない。夏の大会で相手選手を骨折させたことの方が珍しく、それは相手も武道をたしなんでおり、試合で手を抜きすぎるのも失礼だと思った結果だ。それ以外は、悪事を働いていた相手でも、治療が必要なほどの大怪我を与えないくらいの自己コントロールはできていた。
 でも、ひかりを押さえつけていた男たちの言動に、理性が飛びかけた。相手がどうなるかも考えず、怒りのままに拳を振るいそうになった。
 月也の声が聞こえなかったら、取り返しのつかないことをしていたと思う。
 月也の呼びかけは男たちに向けられたようで、きっと自分に向けられた。相手を傷つけることで、星良自身が傷つかぬようにと。
 己で閉じた扉を慌ててこじ開けようとしている男たちの背中を睨み付けながら、星良は押さえきれない怒りを堪えるようにぎゅっと拳を握りしめた。震える拳から赤い雫がゆっくりと落下するが、心の痛みが強すぎて、星良はその傷に気づかない。ぐっと奥歯を噛みしめながらようやく扉を押さえていたパイプを取り外せた男たちを睨んでいた星良は、そっと自分の拳に触れられて、ようやく我に返った。
「星良ちゃん……血……が……」
 いつの間にか、ひかりが隣に立っていた。怪我をした星良の拳にそっとハンカチをあててくれている。
 まだ青ざめた顔で、大きな瞳は涙で潤み、手も足もまだ震えており、上手く止められなかったのか、ブラウスのボタンも全部はとめられていない。
 それだけ、ひかりにとって恐ろしい時間だったはずだ。助かったといえど、その恐怖はまだ抜けきっていないはずだ。
 それなのに、ひかりは自分の傷を心配してくれている。責められてもおかしくない自分を。
「ひかりっ」
 星良は震える細い肩をぎゅっと抱きしめた。
「ゴメン。ゴメンね……」
 自分は泣く権利などないのに、色んな想いが溢れて涙が滲んでくる。それ以上の言葉が、上手く出てこない。
 ひかりは星良に抱きしめられたまま小さく首を振る。
「星良ちゃんが、謝る必要なんて、ないよ。助けに、来てくれて、ありがとう」
 途切れ途切れに言うと、ひかりは星良の背中をぎゅうっと抱きしめ返した。
 星良の携帯電話から呼び出しが来たにもかかわらず、少しも疑っていなかったと言葉以上のものが伝わってくる。
 感謝を伝えようとするひかりに、星良の目から涙がこぼれ落ちた。
「でも……あた、しが……」
 自分が太陽とのことを祝福できていれば『友達を利用して男を手に入れた』など、ひかりに対する悪評など流れなかったはずだ。こんな風に狙われなかったかもしれない。それに、距離を置くようなことをしなければ、こんな呼び出しに引っかかることもなかっただろう。携帯電話を盗まれたのも、自分の不注意。
 一番悪いのは、こんなことをした男たちだ。それはわかっている。
 でも、きっかけを作ったのは自分。
 こんなに傷ついた状態でも自分を心配してくれるひかりを、自分はどうして許せなかったのか……。
「ゴメンね」
 自己嫌悪で言葉の続きが出てこない星良よりも先に、ひかりが涙声でそう言った。
「星良ちゃんは、悪くないのに、謝らせてばかりで、ゴメンね」
「そんな、こと……」
 ひかりの方こそ、何も悪くない。ただ、同じ人を好きになっただけ。そして、選ばれたのがひかりだっただけ。おまけに、正々堂々戦おうと言ったのは自分であり、最初から二人が両想いであることも知っていたのだ。謝られる理由など一ミリもない。
 戸惑う星良を、ひかりは再びぎゅうっと抱きしめた。
「でも、大好き。星良ちゃんのこと」
「ひかり……」
 星良は、細くて、でも柔らかなひかりの身体をそっと抱きしめ返した。思い切り抱きしめたかったけれど、感情のままにぎゅっとしたら壊れてしまいそうだと思ったからだ。
「あたしも、大好きだよ」
 太陽が一番大切だった。誰よりも好きだった。
 でもやっぱり、ひかりも好きだと思った。
 こんな時でも相手を気遣えるひかりに尊敬の念すら抱くし、愛おしいと思う。
 それに、ひかりが危険だと知って、ひかりが自分にとってどれだけ大切な存在が再確認できた。傍にいなければ、守りたくても守れない。
 今なら、大切な二人が共にあることを、受け入れられる気がした。
 たぶん、微笑み合う二人を見たら、胸が痛むだろう。泣きたくなることもあるだろう。
 でもそれ以上に、太陽やひかりと過ごす時間がぎこちないもので有り続ける方がもったいない。
 時間は無限じゃない。共に笑い会える時間は永遠ではなく、有限だ。
 胸に宿る小さな痛みも、離れることではなく、一緒に過ごすことで癒えることもあるだろう。癒えることに同じだけ時間がかかるなら、大切な人たちとケンカしながらでも一緒にいたい。
 素直に、そう思えた。
「すごく図々しいけど、また、友達に戻ってもらえる?」
 そっと身体を離し、おずおずと星良が尋ねると、ひかりは涙目のまま微笑んだ。
「図々しいわけない。すごく、すごく嬉しいよ」
「ありがとう」
 星良が笑むと、ひかりは再び星良にぎゅっと抱きついた。いつのまにか、ひかりの震えはおさまっている。
「星良ちゃん、大好き」
「うん。あたしも大好きだよ」
 そう言って抱きしめ返す。
 と、下の方から声が聞こえた。
「いいなー。僕も言われてみたいなー」
 はっと声の方に視線を向けると、すぐ傍でしゃがみこんだ月也が抱きしめ合う星良とひかりを見上げていた。その隣に太陽が立っている。
「な、なにバカなこと言ってんのよ!」
 月也の発言にやや狼狽えながらひかりから離れると、ひかりはようやく二人の存在を思いだしたというようにハッとした表情を浮かべる。
「ふ、二人も助けてくれて、ありがとう」
「んー、ほぼ星良さんの活躍なんだけどもね」
「遅くなって、ゴメン」
 いつも通りの月也に、後悔を隠しきれない太陽。星良とひかりが仲直りをしたことにはホッとしたようだが、ひかりをすぐに助け出せなかったことを悔いているようだ。
「そんなこと……」
 ひかりがそんな太陽をフォローしようとしたのを見て、星良は一歩踏み出した。皆の視線を浴びながら太陽の背中に回り、とんっとひかりの方に押す。
「抱きしめて安心させてあげるの、あたしじゃなくて、太陽の役目でしょ!」
「えっ……えぇ!?」
「ちょ、せ、星良ちゃん!?」
 慌てふためく二人にニッと笑ってみせると、しゃがんだままの月也のシャツの襟元を引っ張って立ち上がらせる。
「じゃ、あたしたちは行くから、ひかりのことよろしくね、太陽」
「あ、うん。……って、星良」
 呼び止める太陽の瞳に自分を気遣う想いを感じ、星良は微笑んだ。自分は大丈夫だと伝えるために。
「いいから、ひかりのこと安心させてあげて。あたしたちはあいつ等を……って、あれ? どこいった?」
 ひかりを襲った男たちの姿が見えずに顔をしかめた星良に、月也があっちあっちと体育館を曲がろうとする人影を指さした。見覚えのある屈強な男性が、三人を引きずるように連行している。
「あー……」
 誰がどこに連れて行ったか理解した星良は納得と、月也の手際の良さに感心した声を漏らした。彼らの存在を思いだし、再び青ざめたひかりに安心させるように笑顔を見せる。
「とりあえず、うちの師範代がこらしめてくれるみたいだから、安心して。それ以上のことは、ひかりが落ち着いてから考えよう」
「……家族には、知らせたくないの。心配、かけたくないから」
 スカートをぎゅっと握りながら答えるひかりの肩に、安心させるように太陽はそっと手を乗せた。
「久遠さんが一番いいと思うようにしよう。皆、協力するから」
「ありがとう」
 襲われた怖さを思いだしたのか、力なく微笑むひかりを太陽が優しく見つめる。
 自分も一緒に居た方がいいかとも思ったが、星良は月也を連れて一度二人から離れることにした。こんな時に、ほんの少しの嫉妬もしたくなかったから。それに、男たちのお仕置きを人に任せっきりなのも気が済まなかったこともある。
 ひかりのことは太陽に任せ、後で再び合流することにしてその場を離れた。学校見学のフォローがあるからと学校に残った月也とも別れ、星良は師範代と怯えきった男たちと共に神崎道場へ向かったのだった。

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