道場の片隅で、星良はじんわりと額に汗を浮かべていた。横にはひかりを襲った男子生徒三人。ストレッチや筋トレといった稽古に入る前の準備運動中で、星良も同じプログラムをこなしていた。彼らへプレッシャーを与えるためでもあるが、身体を動かすことで、気持ちを落ち着けたいのもあった。
無心でスクワットをしていた星良だが、バタバタと倒れる音に我に返る。
「……嘘でしょ?」
 星良にとっては軽い準備運動なのだが、彼らには過酷だったらしい。声も出せずに畳の上に倒れこんだ彼らの足はガクガクと震えている。
「情けないなぁ。小学生にも呆れられてるよ?」
 笑いを含んだ声に視線を向けると、携帯電話を三つ手にした制服姿の月也が近づいてくるところだった。月也の言う通り、道場内で稽古中の小学生の上級者コースの門下生が、自分たちと同じ練習をしながらすでにへばっている彼らを小ばかにしたように見つめている。彼らもそれに気づいているが、反応するほどの体力も気力もないらしい。
 月也は三人のそばにしゃがみこむと、それぞれの顔の前に携帯電話を置いていった。
「これ、中のデータ確認したので、返却しておきますね、先輩。久遠が写ってなくてよかったです」
 ニッコリと笑む月也だが、声に潜む冷たさに、運動で上気していた彼らの顔が青ざめた。月也は笑顔のまま言葉を続ける。
「携帯のデータは保険にとってあるので、気を付けてくださいね。もし今後、先輩たちが久遠の視界に入るようなことがあったら……ね?」
『ね?』って何だー!? と叫びたいのに叫ぶ気力もない彼らは、ただ小さく頷くしかできなかった。
 月也は立ち上がると、壁際で監視していた師範代に微笑みかける。
「じゃ、星良さんは連れてくので、あとはよろしくお願いしますね、師範代」
「あぁ。休憩はさんだら、楽しい稽古のはじまりだからな」
 これで終わりじゃないのかと、泣きそうな顔をした彼らを冷たい眼差しで見下ろしてから、月也は星良を見つめた。
「というわけで、行こうか、星良さん。二人とも待ってるよ」
「……うん」
 もう少し身体を動かしたい気持ちもあったが、ひかりを待たせるわけにもいかない。ぺしっと自分の両頬を手のひらで叩いて気持ちを切り替えると、星良は月也とともに道場を後にした。
「ひかり、どこで待ってるって?」
 母屋につながる渡り廊下を歩きながら尋ねる星良。シャワーはともかく、着替えはしたい。場所によって、服装も多少変わる。
「んー、縁側で待ってるよ」
「へ? は? うちの?」
「うん」
 さらりと答える月也の横で、星良は険しい顔で道場を振り返った。
「大丈夫なの? あそこにあいつらいるのに」
 自分を襲った男たちが同じ敷地内にいるなど、嫌に違いない。だから別の場所になるかと思ったのだが、月也の顔を見ると小さく笑っている。
「大丈夫なんじゃない? そこにいること、久遠の頭から抜けてるみたいだし。それよりも、また星良さんの家に来れるようになったことの方が嬉しいみたいだよ?」
「そう……なの?」
 心配なような、嬉しいような、複雑な心境で縁側に向かった星良だったが、ひかりが星良を見つけて顔をほころばせたのを見てほっと胸をなで下ろした。ひかりと太陽が並んで座っていたので、ひかりの隣に腰をおろす。
「うちでよかった?」
「うん。星良ちゃんの家のお庭、綺麗で落ち着くし」
 中庭を見て、ひかりは微笑んだ。日本庭園風の庭は、紅葉の時期を迎え綺麗に色づいている。今は沈みかけた夕日が、より一層燃えるような赤色に染めて美しかった。
 閉鎖的空間で襲われた後だから、室内よりも解放された空間の方が落ち着くのもあるのかもしれない。
「少しは、落ち着いた?」
 月也も太陽の隣に座ったのを目の端で確認しながら、星良はおずおずとひかりに尋ねた。
「うん。ありがとう。心配かけてごめんね。星良ちゃんのケガは大丈夫?」
 逆に心配そうな顔で見つめられ、星良は手足をぱたぱたと動かした。
「全然大丈夫! あんなのかすり傷だよ」
 ひかりの向こうから、太陽と月也の『違うだろ』という視線を向けられたが、気づかぬふりをする。縫うほどの傷ではなかったし、処置後はケガした場所をかばいながらだが筋トレも出来たのだから、星良にとってはかすり傷と変わらない。
「私のために……」
「ごめんね、はもういらないよ。ひかりは何も悪くない」
 ひかりの言葉をさえぎって、星良はニッと笑って見せた。ひかりもつられたように微笑む。
 ひかりと太陽が一緒にいるところを見たら、また嫌な感情が頭をもたげるかと思ったが、今のところは大丈夫そうだ。
「で、どうする? 久遠」
 いきなり核心をついた月也の問いに、ひかりはぴくりと肩を動かした。
「ちょ、月也。そんないきなり……」
「大丈夫だよ、星良ちゃん」
 逆サイドにいる月也を身を前に乗り出して軽く睨んだ星良だが、ひかりに止められて座り直す。ひかりは膝の上に置いた手を、ぎゅっと握りしめた。
「やっぱり、大ごとにはしたくないの」
「つまり、学校にも警察にも言わないと?」
「うん」
「あいつら処分されないままになるけど、いいのか?」
「……うん」
 ひかりと一番付き合いの長い月也が、淡々とした口調で確認する。太陽はひかりを見守るように横顔を見つめており、話を静かに聞いている。
「知られたく、ないよね。あんなこと」
 俯いたひかりを見つめながら、星良は悔しげに唇を噛んだ。彼らが正式な処分を受けないのは悔しいが、彼らを処罰するにはひかりがどんな被害を受けたのかを話さなければならない。忘れたい出来事を自分の口で説明するのは、かなり苦痛なことだろう。学校や警察も情報を公開することはないが、噂は漏れてしまうものである。未遂に終わったとはいえ、知られたくない内容であることは間違いない。
「うん。いろんな人に知られる方が、怖い、かな」
「そう、だよね」
 ひかりに同調しながら、星良は道場の方向を睨んだ。あの男たちは師範代が身も心も叩き直しているだろうが、それでは生温いのではと思ってしまう。
「両親にも心配かけたくないし……」
 静かにそう言ったひかりを、月也がじっと見つめる。それに気づいたひかりは、小さく微笑んだ。そこに二人だけに通じる何かを星良が感じたとき、ひかりが再び口を開いた。
「私、ね、両親と、血がつながってないんだ」
「……え?」
 さらりと告げられた真実に、星良と太陽は一瞬意味を飲み込めぬままひかりを見つめたが、月也だけは驚いた様子はなかった。
「幼いころ、施設にいた私を、両親が引き取ってくれたの」
 意味はわかったが、何と言っていいのかわからずに呆然と見つめる星良。太陽は何か思い当ったようにわずかに息をのんだ。ひかりは慌てたように笑顔を浮かべる。
「あのね、すごく大事にしてくれてるの。本当の娘のように可愛がってくれてる。家族仲はすごくいいの」
「そっ……か」
 動揺を抑えて、星良は短く答えた。そして、少し考えてから口を開く。
「でも、それなら、本当のこと話した方が、いいってことはない? 大事な人が傷ついているのを知らないのって、きっとつらいよ」
 星良の想いに、ひかりは静かに微笑んだ。
「そうかもしれない。でも、血がつながってないからこそ余計に頑張らなくちゃっていう両親だから、知らないままの方がいいと思うんだ」
「そっか……」
 家族の関係に、これ以上口出しできない。ひかりがいいと言うなら、それがいいのだろう。
 だが、戸惑いが隠せない。月也はその事実を知っていたのか動揺のかけらも見せていないが、太陽もまだかける言葉を見つけられていないようだ。
 そんな二人の様子に気づいたのか、ひかりは突如頭を抱えた。
「ごめん。話すタイミング間違えたかも……」
「え、いや、大丈夫だよ。ただ、ちょっと驚いただけで!」
「うん。別に間違えてない!」
 うろたえたひかりに、慌ててフォローをいれる太陽と星良。月也はそんな三人を見て、横を向いて噴出している。
「ちょっと、月也っ!」
「あー、ごめん。三人の動揺っぷりが面白くて」
「笑うところじゃない!」
「いや、重く受け止めるところでもないよ」
 突っ込んだ星良に、月也はふふっと笑いながらそう返した。ひかりが助けられたような顔で月也を見つめる。
「久遠は親子関係に悩んでるわけでも、自分の出生について悲観してるわけでもない。ただ、いつか言おうと思ってたら、ちょうど両親も関わる話になったから、思い切って今言っただけだと思うよ」
 月也の助け舟に、ひかりはこくこくと頷いた。
「そうなの。両親に遠慮してたり、血の繋がりに悩んでるわけではないの。むしろ、心配してくれすぎて必要以上に話が大きくなりそうで、余計心配というか……。話すタイミング悪くて、ごめんなさい。ただ、大切な人には、本当のこと知ってほしいなって前から思ってて……」
 あわあわとしながら説明するひかりをじっと見つめていた太陽だが、無意識のように口が動く。
「ってことは、知っていた月也は大切な……」
「えぇ!?」
「そう来たか。太陽でも嫉妬するようになったんだねぇ」
 複雑な表情を浮かべていた太陽の呟きに動揺するひかりと、くくっと笑った月也で、太陽は自分の想いが口に出ていたことに気づき、かぁっと顔を赤らめた。
 未だ混乱中の星良だったが、太陽の淡い嫉妬にちくりと胸を痛めつつ、なんとなく悟る。
 おそらく月也は小学生のころにはその事実を知り、まだ不安だったひかりの心をさりげなく支えたに違いない。ひかりの初恋とは、そこから来ているのではないだろうか……。
「僕は聞いたんじゃなくて、昔、たまたま知っただけだよ。大切だから聞いたわけじゃない。な?」
「え、あ、うん」
 まだ動揺しているひかりだが、たぶん、この動揺が何かは気づいていないんだろうなぁと、ぼんやりと思う星良。色々と鋭い月也だが、ひかりの初恋の相手までは知らないだろう。
「えっと、あのね。何が話したかったかというと、ね」
 胸に片手を当て、ふぅっと息を吐いて気持ちを落ち着けながら、ひかりは自分の中の言葉を整理している。星良は膝の上にあるひかりの手に、そっと手を重ねた。ひかりは驚いたように星良を見つめる。
「どんな話でもちゃんと聞くから、安心して話して」
 自分よりも混乱している人を見ると逆に落ち着くのか、星良は落ち着いた声でそう言った。ひかりは、柔らかく目を細めた。
「ありがとう。……私、ね、小さい頃に誰からも愛されるわけじゃないって気づいたの。どんなに頑張っても、受け入れられないこともあるって」
 ズキンと胸が痛み、星良はひかりの手をぎゅっと握った。ひかりは大丈夫と言うように、微笑みかける。
「でもね、今の両親と暮らすようになって、血の繋がりなんて関係なく愛してくれて、人との絆を信じられるようになった。それでも、仲がいい友達はできても、そこに強い絆があるのかは自信がなくて……。そんな時に、朝宮くんと星良ちゃんのことを知って、すごく羨ましかった。私も、そんな信頼しあえる人がほしいなって、憧れてた」
 ひかりの言葉に、星良と太陽は目を合わせ、少し照れたようにひかりを見つめた。
 ひかりは嬉しそうに笑みを広げる。
「だから、ね。今日のことは怖かったけど、すごく怖かったけど、星良ちゃんが来てくれて、本当に嬉しかったの。私も、星良ちゃんと心から信頼しあえる関係になりたかった。それなのに、星良ちゃんを傷つけたりして……」
 ひかりが謝罪の言葉を口にする前に、星良は横からぎゅっと抱きしめた。太陽とひかりのことを考えて、心に棘が突き刺さらないわけではない。でもそれ以上に、こんな風に自分をさらけ出したひかりのことを信頼できない自分でいたくない。
「距離置いたりして、ごめん。もう、絶対しない。あたしはずっと、ひかりに信頼される友達でいたい」
「星良ちゃん……ありがとう」
 嬉しそうに星良の道着をぎゅっとつかんだひかりに、星良の心がじんわりと温まる。
 自分のせいで男たちに襲われて、ひかりは深く傷ついただろう。でも、それをきっかけに仲直りできて、それがひかりの心を癒したのなら、男たちは許せないが、少しは救われる。
「なんかもう、太陽のせいでギクシャクしてたはずなのに、二人とも太陽よりもお互いが一番好きっぽいよね。こういうの、なんて言うんだっけ? 百合?」
「月也、ここはふざけないで温かく見守る所だって」
 太陽がたしなめたのも手遅れで、瞬間移動のような速さで移動した星良に縁側からけり落とされる月也。太陽は苦笑を浮かべ、ひかりは涙目になっていた目を大きく見開いて驚いていたが、怒る星良と軽く返す月也のやり取りを見て、フフッと笑う。
 ギクシャクとしていた時間は時が流れるのが重く遅かったが、今は軽く早く流れている気がする。夏休み前とかわらぬ明るい空気に戻ったことで、嫌な事件すら一時忘れ、いつの間にか四人で笑いあっていた。


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