「あー、すっきりした!」
 門下生のいない道場の中で、星良は爽やかな笑顔でスポーツドリンクを飲み干した。
「そりゃ、これだけ……やればね」
 その横で太陽は畳の上に転がり、すっかりあがった息を整えながら、流れ落ちる汗をタオルで拭った。大会での消化不良と、月也に彼女がいた事の衝撃によるストレス解消に、しばらく組手を付き合わされていたのだ。
「まぁ、すっきりしたならよかったけど」
 起き上がってスポーツドリンクを受け取った太陽に、星良はにっこりと笑いかけた。
「つきあってくれてありがとね、太陽」
 太陽は喉を鳴らしてドリンクを飲みながら、あいている手で、汗でぬれた星良の髪をくしゃくしゃと撫でる。星良は心地よさそうに目を細めた。
 幼い頃から、太陽に頭を撫でられるのが好きだった。どんなに機嫌が悪い時も、どんなに哀しい時も、太陽が撫でてくれるだけで気持ちが和らいだ。当たり前の様に自分の頭にのせられる手が、何よりも心地よかった。
「それにしても、月也に彼女がいた事がそんなにショックだとは思わなかったな」
 からかうような太陽の口調に、星良は唇を少し尖らせる。
「別にショックじゃないわよ。ただ、驚いただけ。あんないい加減な奴に彼女いるなんて」
「そう? 月也、いい奴だよ」
「どこが?」
 半眼で見つめた星良に、太陽は答えを返さず、ただ可笑しそうに目を細めただけだった。
「だいたい、『また明日』って事は、明日の花火大会一緒に行くって事でしょ? 普通、彼女といくもんじゃないの?」
 恋心がわからないといっても、普通はそういうものだという事くらい、星良にもわかる。
「今までだって、イベントはあたしたちと一緒に過ごしてたじゃない。その時だけ彼女いなかったわけ?」
「んー、どうだろうな」
 濁すような言い方は、いたという事だろう。星良は、呆れ顔をここにはいない月也の代わりに太陽にむけた。
「いい奴だったら、もっと彼女を大切にするでしょ」
「月也には、月也の優先順位があるんだろ」
 言いながら、太陽は再び星良の頭を撫でた。これは、自分を落ち着かせるためというより、この場を誤魔化そうとする為のものだ。長年つきあっていれば、その撫でかたに微妙な違いがあることくらいわかる。
 友達としては、月也はいい奴なのだろう。だが、自分の事をしょっちゅうからかったりする辺り、女子にとっていい奴かは甚だ怪しいと星良は思う。
 彼女もさっさと目を覚ませばいいのに……。
 そんな事を思いつつ、星良たちは稽古を終え、シャワーを浴びに母屋に移動したのであった。


「まぁ、まぁ、まぁ」
 翌日、神崎家の一室で、星良の母親の感嘆の声が漏れた。室内では、ひかりが星良に浴衣の着付けを行っていた。
「すごいわねぇ、ひかりちゃん。自分で着られるだけじゃなくて、人の着付けもできるなんて。助かるわぁ」
「いえ、浴衣だけで、着物はまだできないんですけどね」
 照れたように答えるひかりに、星良の母は感心した眼差しを向ける。
「それだけでも十分凄いわよ。うちの子なんて、女の子なんだか男の子なんだか、わかりゃしないんだから」
「母さん、うるさい!」
 ひかりに帯を絞められながら、星良は煩わしそうに声をあげる。星良の母は軽く肩をすくめると、ひかりに一言声をかけて、部屋を後にした。
「母さんってば、自分で着付けしてくれたことないくせに、よく言うわよ」
 憤慨した星良に、ひかりは可笑しそうに目を細めた。そんなひかりを怪訝そうに見た星良に、ひかりは帯を結びながら答えた。
「小さい頃に浴衣着せようとしたら、星良ちゃんが泣いて暴れて嫌がって、それから着せるの諦めたって言ってたよ、さっき」
「え……」
「覚えてないんだ」
「…………」
 覚えていないが、自分ならやりかねないという自覚が星良にはあった。今も既に、動きづらいのが嫌だと思っている。ただ、ひかりに一緒に着ていこうと誘われたし、可愛い浴衣を貸してくれるというから、着せてもらったのだ。自分から着たいと言う性格ではない。
「はい、できあがり」
 明るい声でそう言うと、ひかりは星良を姿見の前に連れて行った。
「ほら、似合ってるよ、星良ちゃん。可愛い」
 鏡の中には、黒地になでしこが描かれた浴衣をしとやかに身につけ、短い髪のサイドを編み上げ、可愛らしい和風の髪飾りをつけた星良が立っていた。見慣れない姿に、照れくさくて直ぐに目を逸らしてしまう。
 それに、可愛いと言うならひかりのほうだ。
 クリーム色の地に、百合と蝶があしらわれた清楚な浴衣は、ひかりの柔らかな雰囲気に良く似合っていた。普段は下ろしている髪を器用にまとめており、うなじが実に色っぽい。女の星良でも思わず見惚れてしまいそうなほど綺麗で、すごく似合っている。
「星良さん、まーだー?」
 密かにひかりに見惚れていると、襖の向こうから月也のからかうような声が聞こえてきた。
「もう終わったよ」
 星良が顔を引きつらせたのに気付かず、ひかりが朗らかに答えると、ゆっくりと襖が開かれた。
「おぉ」
 隣の部屋に立っていた月也は感心したように声を上げ、太陽は眩しそうな顔で浴衣姿の二人を見た。
「馬子にも衣装だね、星良さん」
「褒めてなーい!」
 満面の笑みの月也につっかかろうと、浴衣でいつも通りの歩幅で近づこうとした星良は、浴衣の裾に足をとられ、バランスを崩す。すかさず、素早く前に出た太陽が抱きとめた。
「せっかく可愛い格好してるんだから、気をつけなきゃ、星良」
「うん……」
 太陽の引き締まった腕につかまりながら、体勢を立て直す星良。こんな恰好をしていると普段はない恥じらいが生まれるものなのか、少々恥ずかしかった。
「大丈夫? 星良ちゃん。浴衣の時は歩幅は小さめにね」
「わかった」
 見本を見せるように、しとやかに歩いて隣の部屋に移動するひかりの所作の美しさに感心する。強さなら誰にも負けないと思う星良だが、女子として、ひかりに勝る物を見つける事は不可能な気すらした。
 ひかりの後ろ姿に見惚れていた星良は、同じように太陽が見惚れている事に気付かなかった。それよりも、そんな星良を見て可笑しそうに笑っている月也に、肘鉄を喰らわすことのほうに気を取られていた。

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